沢の鶴資料館 後編

 冷やされた蒸米は、麹菌の発育に適当な30~40°の室温を保った麹室(こうじむろ)にて種麹を振られ、麹蓋に盛られる。麹蓋には保温用の掛布をかけて、棚に置き、約40時間置いておく。こうして蒸米の中で麹菌が繁殖し、麹が出来る。

麹室

麹蓋

 麹室は、室内の湿度・温度を一定に保ち、外気と遮断するため、壁や天井の奥に籾殻を詰めて断熱材にしていた。

 次は完成した麹を蒸米、宮水と混ぜて桶に仕込み、乳酸菌を自然に育成して酛(もと、酒母ともいう)を作る酛仕込みの工程である。

麹、蒸米、宮水を混ぜる半切桶

乳酸菌を育成する酛卸桶

 こうして出来た酛に麹、蒸米、宮水を混ぜて、米のでんぷんの糖化と発酵を徐々に進める工程が醪(もろみ)仕込みである。仕込みは通常3回に分けられ、三段仕込みと言われている。

醪仕込みに使われる大桶

 熟成を終えた醪は木綿の渋袋に移され、酒槽(ふね)と呼ばれる細長い絞り機に並べて重ねられる。上から渋袋に圧力をかけて、醪から酒が絞り出される。

醪を入れる渋袋

渋袋を入れて酒を絞り出す酒槽

酒槽に上から圧をかける撥棒

 酒槽の上には重りとなる木材を置いて、その上から撥棒(はねぼう)という木材を用いて梃子の原理で木材を押さえ付け、酒槽の中に入れられた醪から酒を絞り出す。

絞りの工程の断面図

 酒槽から絞り出された酒は、垂壺という地下に備え付けられた大甕に落ちる。

 沢の鶴資料館再建工事に際して、地下槽場の遺構が発掘された。資料館の1階に発掘された状態で展示されている。

 槽場を地下構造にした方が、絞りの工程が行いやすかったのだろう。

地下槽場の跡

 ここからは、安土桃山時代に作られたと思われる備前焼の垂壺も見つかった。

備前焼の垂壺

 この槽場は、江戸時代後期から昭和初期まで使われていたものとされている。

 搾り取られた酒は、滓引き、火入れという作業を経て完成し、出荷される。

 酒は樽に入れられ、菱垣廻船や樽廻船に載せられて、江戸などの消費地に運ばれた。

樽廻船の模型

廻船に積まれた樽

 樽廻船だと、平均して6日ほどで灘から江戸まで酒樽を運べたという。

 駆け足で沢の鶴での昔の酒造の工程を見てきた。これら酒造に使われた道具類は、兵庫県指定重要有形民俗文化財となっている。

酒造道具

 自然の素材を使い、麹菌や乳酸菌の力を借りて酒を造る工程は、なかなか魅力的である。一杯の酒に膨大な人力と自然の力が込められていると考えると、酒を粗末に扱えない気がする。これはどんな飲食物でも同じことだろうが。

 さて、今までの酒造の工程で、様々な樽や桶が使われたのを見てきたが、これら樽や桶は、今でも手作業で作られている。

樽、桶

 酒樽は、中に入れた酒が浸透したり漏出しないように、木香のある良質の杉材を緊密に締めて作られる。

 杉材を円筒形に組み、竹を編んだタガで締め、底と蓋を固定した。

 沢の鶴資料館の前には、樽を専門に作る樽職人の作業場があった。

樽職人の作業場

 木の板と竹だけで、中に入れた液体が漏出しないように樽を作るのは、相当な技術だと思う。

 プラスチックや金属加工が発達した現代でも、杉材で作られた樽に酒を入れて出荷するには、相応の理由があるのだろう。

 さて、沢の鶴資料館の南側には、敏馬(みぬめ)神社の御旅所となっている住吉神社がある。

住吉神社

拝殿

敏馬神社御旅所の碑

 御旅所とは、祭礼の時に、神輿が一時休憩する場所である。

 住吉神社は、酒樽を運ぶ廻船業者が航海の無事を祈った神社だろう。

本殿

 これら廻船業者の経済力を頼って、江戸時代には多くの文人が灘の地を訪ねたという。

 俳人与謝蕪村もその一人だったようだ。

 住吉神社の境内には、蕪村の句、「畑打ちの 目にはなれずよ 摩耶ヶ嶽」を刻んだ句碑がある。

蕪村句碑

 今は市街地に覆われたこの辺りだが、江戸時代には海から六甲山(摩耶ヶ嶽)までひたすら畑が続くような情景だったのだろう。

 畑打ちの作業をする人の目には、常に摩耶ヶ嶽が離れないという、当時のこの辺りの光景を詠んだ句である。畑打ちは、種まきの準備のために、畑の土を掘り起こす作業のことで、春先に行われる。

 この句を読むと、春の六甲山の下に広々と畑が広がり、広大な畑のなかにぽつりぽつりと畑打ちの作業をする人がいる情景が一瞬の内に思い浮かぶ。

 蕪村は、頭の中に情景が絵画のように思い浮かぶ句を詠んだ俳人である。

 私はかつて「蕪村句集」を読んで蕪村ファンになった。蕪村を論評したある本には、「人生には二種類ある。蕪村を知る人生と知らない人生だ」と書いてあった。

 確かに蕪村を知ると、人生が豊かになる気がする。

 住吉神社から北に歩くと、西郷橋の西詰に、旧西国浜街道の石碑が建っている。

旧西国浜街道の石碑

 江戸時代中期に、西国街道から分岐して、浜沿いに西国浜街道が出来た。芦屋ー生田間の浜沿いに出来た街道である。

 西国街道のバイパス的な存在として、庶民に利用されたという。

旧西国浜街道

 西郷、御影郷、魚崎郷といった酒造地帯を通過する道である。昔は旧街道の面影を残す建物もわずかながらあったが、震災でそれらの建物も倒壊し、昔日の面影はなくなったそうだ。

 今ある神戸市灘区の町並みも、蕪村の時代には一面の畑だったと思えば、今の神戸の町並みも、夢幻のような光景である。