沢の鶴資料館 前編

 兵庫県立美術館のあるHAT神戸から東進して、神戸市灘区大石南町1丁目にある沢の鶴資料館を訪れた。

沢の鶴資料館

 沢の鶴資料館は、享保二年(1717年)に創業した酒造業者沢の鶴の、酒造に関する資料を展示する資料館である。

1950年代の沢の鶴の空撮写真

 沢の鶴は、灘五郷の一つ西郷(にしごう)で現在も稼働している酒造会社である。

 都賀川を挟んだ資料館の東側に、沢の鶴株式会社の工場ある。

昭和初期の沢の鶴の広告ポスター

 沢の鶴資料館の建物は、沢の鶴が江戸時代後期に実際に酒蔵として使っていたものである。

沢の鶴資料館

 昭和53年に古い酒蔵の形態を残したまま修理し、民俗文化財の資料館として公開されることになった。

 しかし平成7年の阪神淡路大震災で全壊した。

阪神淡路大震災で全壊した沢の鶴資料館

 その後、免震設計を施されて再建されたが、再建工事の際に、折れた木組みの中から天保十年(1839年)に改築されたことを記した墨書が見つかった。

 この発見で、少なくとも天保十年以前からあった酒蔵であることが判明した。

 私が沢の鶴資料館の敷地に入ると、綺麗な梅が咲いていた。春の訪れを実感した。

沢の鶴資料館の梅の花

 灘地方における酒造りの歴史は、寛永元年(1624年)に西宮で醸造されたのが最初とされている。正徳六年(1716年)には初めて灘の名称が使われた。

 明暦年間(1655~1658年)や享保年間(1716~1736年)に続々と酒造業者が開業した。さらに明和年間(1764~1772年)には灘目と称されるようになった。

 明治19年に摂津灘酒造組合が発足して、今の灘五郷が確立した。灘五郷とは、西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷今津郷を指す。

船舶で宮水を運搬した時に使われた水樽

 今の灘五郷の酒造りを支えているのは、天保八年(1837年)に西宮で発見された宮水である。

 宮水は、西宮の海岸から約1キロメートルの浅井戸から湧く水で、鉄分が非常に少なく、酒米の発酵に大事なリンやカリウムを豊富に含んだ硬水である。

馬車で宮水を運搬する際に使われた大樽

 当時は、冬から春にかけて絞った酒は、夏を過ぎると風味が落ちていた。

 この宮水を使い始めてから灘の酒は秋に味が冴えるようになり、「秋晴れ」と呼ばれ、江戸で大好評を博したという。

 沢の鶴は、宮水を西宮から船や馬車を使って運んでいた。今ではタンクローリーで運ばれているという。

 灘の酒の味を支えているのは、水だけではない。播州で生産される酒米の王様と呼ばれる山田錦などの米も重要である。

 播州に近い灘地方は、良質な酒米を容易に調達することが出来た。

米俵を運ぶ大八車

わらくずと麹米を分ける唐箕(とうみ)

 入荷した米は、精米により、玄米の外側を削り落とし、味に悪影響を与える余分な成分を除去する必要がある。

 江戸時代後期には、灘地方の急流河川を利用して、水車を使った精米が行われるようになった。水車による精米で、人力による精米よりはるかに高度な精白米を得ることが出来るようになった。

 宮水と播州酒米、灘地方の急流河川を生かした水車精米が灘五郷の酒造りの基盤であった。

 精米された米の表面に付着した糠を取るために、次は洗米の工程に移る。洗米は真冬の早朝に行われた。

 撥ねつるべを使って井戸から汲まれた水を踏み桶に入れ、踏み桶に入れた米を足で踏んで洗米した。

井戸と撥ねつるべ

井戸から汲み上げた水を溜めた蓮桶

 洗米された米は、最適量の水分を含ませるため、漬け桶で水に漬け置かれる。

漬け桶

 これは米のでんぷんを糊化させて、麹菌による糖化作用を受けやすくするためであるという。

 漬け置かれた米は、翌朝釜の上に置かれた甑に入れられて蒸される。蒸米の工程である。

蒸米に使われる甑と釜

 米が蒸しあがると、わら靴を履いて甑に入り、木のスコップを用いて蒸米を切り出し、筵の上に広げて自然の冷気で冷ましたという。

わら靴

蒸米の工程

 今まで紹介した工程で、まだ酒造工程全体の1/3くらいであろうか。

 現在日本酒は、世界的に注目されるようになり、海外にも輸出されるようになった。

 日本の風土から生まれたお酒の味が、世界で楽しまれるようになったことは、喜ばしいことである。