4月23日に丹波の史跡巡りを行った。
祭神は、稚武王(わかたけおう)命である。聞きなれない名前だが、記紀では、倭建(やまとたける)命と弟橘媛(おとたちばなひめ)との間に若武彦王という王が生まれたとある。
稚武王は、恐らく若武彦王と同一であろう。そうだったとして、その神様がなぜここに祀られているのか分からない。
また島田神社には、十成別王(とおきわけのみこ)命と息長田別(おきながたわけ)命が配祀されている。この二柱の神様も、記紀では倭建命の子とされている。
この神社は、倭建命となにがしかの縁があるようだ。倭建命が出雲建命を征伐しに出雲に向かった際に、この地を通過したのだろうか。
島田神社の創建は詳らかではない。かつてこの地は、豊富庄と呼ばれ、皇室の御料地だったが、その後天龍寺の荘園になった。
島田神社は、豊富庄の総社という位置づけだったらしい。
島田神社の本殿は、発見された棟札の墨書から、文亀二年(1502年)に建立されたと判明している。
檜皮葺の三間社流造である。建立から長い間修繕されず、昭和9年には本殿を覆う覆屋が建てられ、本殿の形状も改変されてしまった。
平成20年に覆屋を外して、建立時の姿に戻すべく修復工事が為された。
修復に際し、外装はベンガラで朱色に彩色された。
本殿内陣は、三室に区画されており、各室の間は板壁で仕切られている。先ほどの三柱の神様が、各室に祀られているのだろう。
両脇室には、永正三年(1506年)の墨書のある宮殿が置かれている。
本殿の蟇股や欄間の彫刻は、鮮やかに彩色されており、建立時の姿を偲ばせる。
再建工事の際に、床板の下が黒く煤けているのが分かったそうだ。基壇上面からは焼土壙の跡が見つかっており、過去には本殿床下で火を焚く行事が行われていたようである。
島田神社本殿は、室町時代の神社建築の様式をよく残している貴重な建物として、国指定重要文化財になっている。
島田神社の境内には、もう藤が咲いていた。
最近、温暖化で花が咲く時期が早くなってきていると感じる。今年の夏も暑いという予感がした。
さて、島田神社から国道429号線を東進し、福知山市今安にある天照玉命(あまてるたまのみこと)神社を訪れた。
祭神は、丹波国造の祖とされる天火明(あめのほあかり)命である。別名・天照国照彦火明天櫛玉饒速日(あまてるくにてるひこほあかりあめのくしたまにぎはやひ)命である。
饒速日(にぎはやひ)命は、皇室より先に大和に降臨した天津神とされている。物部氏の祖神でもある。
長髄彦(ながすねひこ)と神武東征に抵抗したが、敗北後は天皇家に服従した。
天津神の神名は、天忍穂耳(あめのおしほみみ)命にしても、瓊瓊杵(ににぎ)尊にしても、稲作に関連しているので、日本に稲作を伝えた人々を指すと思われる。
皇室の祖先も、物部氏の祖先も、海外から日本に渡来し、日本列島に稲作を伝えた人々だったのだろう。
さてその饒速日命こと天火明命は、丹波国造家の祖先でもあるようだ。
国造は、古代に郡レベルの地域を治めた豪族である。律令制成立後は、地域の祭祀を司った。
天照玉命神社は、第13代成務天皇の御代に、丹波国造の大倉岐命が祖先を祀るために建てたと言われている。
戦国時代の戦乱で衰微したが、承応二年(1652年)に、福知山藩主松平忠房が本殿と拝殿を再建した。
現在の本殿は、大正9年に地元氏子の寄進により再建されたものである。
本殿脇に、享保十四年(1716年)に造営された校倉造の宝庫がある。
校倉造の建物は近在にはなく、この地域では珍しいものである。
日本に稲作が伝わり、生産力が向上したおかげで、各地に国が出来た。国同士が争ったり連合したりして、統一国家である大和王権が出来上がった。現在の天皇を象徴とする日本国は、大和王権が継承されたもので、古代と同一の政権である。
今でも天皇は、毎年の新嘗祭(勤労感謝の日)で、神々と稲を共に食するという神事を行っている。
島田神社や天照玉命神社の祭神にまつわる伝承は、日本という国家の成立に関わっていると思われるが、霧のようなベールに包まれている。
いずれにしても、日本各地の神社には、日本成立時の記憶が、途切れながらも今に伝えられている。