つやま自然のふしぎ館の東隣には、旧津山市庁舎を利用した津山郷土博物館が建っている。
津山郷土博物館の建物は、昭和8年に津山市政施行を記念して建てられたもので、約50年間津山市庁舎として使用された。
津山市内の鉄筋コンクリート造りの建物の草分け的存在で、昭和初期の典型的な官庁建築の特徴を有しているらしい。
この時代のものらしい直線基調のアールデコ様式の建物であるが、玄関から入ると、内部も1920年代の欧米建築を思わせるアールデコ調である。
正面の大理石の階段は、創建時の輝きを未だ失わない。この建物は、昭和57年まで津山市庁舎として使用されていたが、昭和63年から津山の郷土の歴史的遺物を展示する郷土博物館として利用されている。
1階には、津山盆地で見つかった化石を元に作られた、水棲哺乳類パレオパラドキシアの骨格復元模型が展示してあった。
昨日の記事でも紹介したように、かつての津山周辺は海であり、温暖な浅瀬が広がっていたという。
復元模型の背後にパレオパラドキシアの絵が描いてあった。現代において海中に棲む哺乳類は、クジラやアシカなど鰭のある動物だが、こんな明瞭な足を持った海棲哺乳類はいない。どうやら樹木の生い茂る浜辺と海中を行き来していたようだ。
郷土博物館には、旧石器時代から江戸時代までの遺物が収蔵展示されている。
旧石器時代の打製石器などは、わざと技巧を凝らしたわけではないだろうが、芸術的な美しさだ。
岡山県の勝央町植月北から出土した袈裟襷文銅鐸は、岡山県指定重要文化財である。
岡山県内では最古級の形式の銅鐸であるらしい。
美作地方からは陶棺がよく出土するが、ここにも多数の陶棺が展示していた。
中でも美作国分寺の跡を継いだ国分寺が所有する須恵器製の陶棺は、見たことのない珍しいものである。全国の須恵器の中でも最大級の作物ではないだろうか。
2階に上ったが、階段の踊り場もアールデコ調である。
美作国は、和銅六年(713年)に備前国から分かれる形で設立された。美作国成立後、行政庁である美作国府が出来たが、その後天平十三年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔に基づいて、美作にも国分寺と国分尼寺が建立された。
当ブログ今年2月8日の記事で、美作国分寺跡、国分尼寺跡を紹介したが、津山郷土博物館に展示されている国分寺の模型の様に、七重塔を控えた大伽藍があったようだ。
寺院跡から発掘された軒丸瓦、軒平瓦も展示してあった。
国分寺は当時の日本の華と呼ばれていた。宗教のみならず、その地域の文化の中心だったようだ。
今年7月24日の「美作の古墳 2」の記事で紹介した西吉田1号墳からの出土品も展示してあった。
写真中央の鉄鉗など、現代の工具箱の中に入っていてもおかしくない形状だ。西吉田1号墳は、5世紀後半に築造された古墳である。このころには、大工道具も揃って来ていたようだ。
私は今まで多くの郷土資料館を見学したが、どこに行っても展示されている内容は似ていて、地域による差があんまり感じられない。美作の陶棺だけは、他の地域ではまずお目にかかれないが、後はそれほど差を感じない。昔から日本には、文化的に均質なところがあったのだろう。
日本の地域が封建領主ごとに分裂していた室町時代から江戸時代までは、地域の特色が出てきている。現代日本はまた均質な時代に戻っている。
これからの日本に、あっと驚く奇抜な文化が出てくるのを期待するものだ。