出石城跡登城門の前にかかる登城橋と、その東側に架かる有子橋の間に、戦前の衆議院議員で、戦後は国務大臣となった郷土出身の政治家、斉藤隆夫の顕彰碑の説明板がある。
斉藤は、昭和11年の二・二六事件の後に、議会において軍部の横暴を非難する粛軍演説を行い、昭和15年には議会で「支那事変処理に関する質問演説」を行った。
当時の日本政府は、中国大陸での戦争を戦争と呼ばず「事変」と呼んでいた。斉藤は、政府が戦争目的を明確に説明しないまま、ずるずると戦線を拡大し、国民生活に多大な犠牲を強いていることを議場で糾弾した。
斉藤は、演説後軍部に睨まれて、聖戦を冒涜する者として懲罰を受け、議員辞職を余儀なくされた。
斉藤隆夫については、彼を顕彰する記念館である静思堂の記事で詳述するので、ここではこれ以上触れない。
出石が輩出した勇気ある政治家の顕彰碑が出石城跡にあるのだが、ここには説明板があるばかりで顕彰碑はなかった。出石城跡の中に顕彰碑があるのだろうが、見つけることが出来なかった。
有子橋を渡ると、赤鳥居が連なる有子山稲荷神社の参道となる。
有子山稲荷神社の参道は、出石城跡の東側を通る道で、出石城跡の最高部に位置する稲荷郭に続いている。
そこから先に歩くと、有子山城跡への登山道につながる。
有子橋を渡り、鳥居を潜ると、右手に建物がある。有子山稲荷神社の神輿を祀っている建物である。
この神輿を祀る建物から参道を上がると、右手に出石城本丸跡の東隅櫓が見える。
東隅櫓の東側には溝があるが、その溝の上に橋のように石垣が架かっている。なかなか珍しい光景だ。
さて、東隅櫓を過ぎ、更に赤鳥居が続く参道を登っていく。
この参道の右手に稲荷郭がある。稲荷郭には、有子山稲荷神社の社殿がある。
稲荷神社のある稲荷郭の北側には、杉が林立している。
最近山を歩いて気付いたが、人間が築いたどんな立派な神社仏閣よりも、こうした自然の林こそが、本当の神殿であると感じる。
太古の日本の聖地には、御神体となる磐座や滝や山ばかりあって、建物はなかった。私にもようやく、太古の日本人の気持ちが分かってきた。
日本の神々は日本の風土に宿っている。その風土は実際に目にすることが出来る。古くは日本を神国と呼んだが、日本は風土という形になって現れた神々を実際に目にすることが出来る国なのだ。
さて、稲荷郭は、出石城跡の最高部に位置する。出石城跡は、出石の町の最も南に位置する。稲荷郭から北を眺めると、出石の城下町を一望できる。
稲荷郭のすぐ真下には、東西に隅櫓を持つ本丸跡がある。殿様がいる本丸よりも高いところに稲荷郭がある。
本来なら城の最も高い場所は、最も攻めにくい場所だから、そこに本丸を持ってくると思うが、出石城は違う。
有子山稲荷神社は、出石城築城前からここに鎮座していたそうだ。江戸時代においても、住民たちは有子山稲荷神社に参拝できたらしい。
住民たちは、稲荷神社から、藩主のいる本丸御殿を見下ろしていたわけだ。
住民から見下ろされることを良しとしていた出石藩の藩風が、ここに立ってみて実感できた。