花光寺山古墳、丸山古墳

 備前福岡から東に行った岡山県瀬戸内市長船町服部に、花光寺山(けこうじやま)古墳がある。

 墳長約86メートルの前方後円墳である。

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花光寺山古墳登り口

 4世紀後半の築造と推定されている。昭和11年の発掘調査で、長持形石棺を始め、三角縁三神三獣鏡、素環刀太刀、鉄鏃などが発掘された。岡山県指定史跡である。

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後円部

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 後円部の上は、枯葉に覆われている。石室の露出はない。

 前方部と後円部の中間の辺りで地面を見ると、何と葺石があった。

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葺石

 古墳は築造当時、表面を河原石などの丸みを帯びた石で覆われていた。しかし、時の経過とともに葺石は失われてしまう。

 私が今まで訪れた古墳でも、地表に葺石が残っているものはほとんどなかった。こんなすぐ足元に葺石が残っているのを見るのは初めてである。

 前方部から後円部を見ると、古墳の大きさを実感する。

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前方部から後円部を見る

 この盛り土を人力で運んで盛ったとすると、相当な人手が必要だったと思われる。

 花光寺山古墳の西側には、現在墓地が広がっているが、その墓地のさらに西側に、7世紀後半に築造された服部廃寺の跡がある。

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服部廃寺のあった辺り

 写真の墓地の上が、花光寺山古墳の前方部である。この墓の手前に、服部廃寺があった。

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服部廃寺見取図

 図の右側の山が花光寺山古墳である。服部廃寺は、南北に講堂と金堂が並び、周囲を回廊が囲む薬師寺式の伽藍だったと推測される。塔跡や門跡はまだ発掘されていない。

 7世紀後半から鎌倉時代までの瓦や、塑像の螺髪、円面硯、鴟尾の破片などが発掘されたという。鎌倉時代までは、寺院として存続していたのだろう。

 丁度金堂のあった辺りに、土壇が築かれていた。

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金堂跡の土壇

 実際の金堂は、この土壇よりも遥かに大きかっただろうから、発掘後に、往時を偲ぶよすがにと築かれた土壇だろう。

 花光寺山古墳の北側には、道路を挟んで天神山古墳がある。

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天神山古墳登り口

 天神山古墳は、かつては前方後円墳と考えられていたが、近年の測量調査により、直径41.5メートルの円墳と判明した。

 4世紀半ばの築造と見られている。かつての乱掘で、石棺の中から、勾玉と管玉を首に巻き、左腕に碧玉製石釧、右腕に貝釧をかけた遺体が見つかったという。

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円墳への登り路

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円頂部

 花光寺山古墳と天神山古墳は、並んで築造されている。時代的にも近接しているので、ここに埋葬された2人は面識があった可能性が高い。どういう間柄であったかは分からない。

 どちらもこの地方の有力な首長だったのだろう。

 花光寺山古墳から北東に行くと、丸山古墳がある。

 丸山古墳は、JR香登駅南側の鶴山を整形して造られた円墳である。

 円墳の直径は約60メートルで、天神山古墳よりも大きい。

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丸山古墳

 丸山古墳も4世紀後半の築造と推測されている。ここの被葬者も、花光寺山古墳と天神山古墳の被葬者と面識があったことだろう。

 ここから発掘された石棺は、太陽などの模様を彫刻した特異なものである。

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丸山古墳石棺の図

 模様が彫られた石棺はお目にかかったことがない。実物を見てみたいものだ。

 石室からは、銅鏡30枚を始め、多くの副葬品が見つかった。それらの遺物は、全て東京国立博物館に収蔵されている。

 丸山古墳は、高さ61メートルの小高い円墳である。

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丸山古墳登り口

 登り始めると、途中、竹林があったりして、なかなか風情のある道が続く。

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丸山古墳登攀路

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 登りきると、円頂部中央に「丸山古墳」と刻んだ石碑がある。

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円頂部

 丸山古墳は、特異な石棺の存在と副葬品の多さの故か、国指定史跡となっている。今日紹介した3つの古墳の中で、最も権勢があった人物が葬られたのだと思われる。

 今日紹介した3つの古墳のいずれからも、鏡が出土している。人の姿を映す鏡は、当時としては驚異のハイテク製品で、その所有者は不思議な力の持ち主として崇められたことだろう。

 これらの鏡は、大和王権が各地の首長に下賜したものと思われる。築造年代の時系列順に、日本地図上の古墳に印を付けていけば、大和王権の勢力範囲が広がった過程が分かるだろう。そういう地図を見てみたいものだが、未だにお目にかかったことがない。

 我々が所属する現代の日本国は、文化的、制度的に大和王権と連続している。大和の三輪山麓の纏向の地が、大和王権の発祥の地だと思うが、そこから大和王権がどう勢力を広げて、外国の文化を取り入れ、今の日本国につながったのか、興味深い。

 思えば、古代の首長連合の長だった大王(おおきみ)の末裔が、未だに国家の象徴として君臨する我が国は、21世紀に古代の風儀を残した不思議な国である。