両山寺の参拝を終えると、もはや日が西に傾いていた。
今回の美作の旅の最後の目的地である、岸田吟香生誕地に向かった。
岸田吟香(本名銀次)は、天保四年(1833年)、美作国久米郡垪和(はが)村大字中垪和字谷に住む岸田秀治郎の子として生まれた。
吟香は、令和2年2月9日の「播磨町 蓮花寺」の記事で紹介したジョセフ彦と共に、元治元年(1864年)に日本初の邦字新聞「海外新聞」を創刊した人物である。
岡山県久米郡美咲町栃原字大瀬毘に、岸田吟香の生誕地の碑があるというので、付近を探したが、なかなか見つからなかった。
棚田の間を通る細い山道を走っていると、岸田家墓地の看板が見えた。
この看板のある所を登って行くと、果たして岸田家の墓地があった。
私は、ここに吟香の墓があるものと思って、墓石を丹念に見たが、それらしい墓石は見当たらなかった。
吟香の墓は、東京の谷中霊園にあることを後に知った。岸田家墓地には、吟香の父の秀治郎の墓はあった。
岸田家は、地元の大百姓の家であったらしい。
吟香は、幼時から地域で神童と呼ばれ、地元津山藩での学問に飽き足らず、19歳で江戸に出て、幕府が設立した儒学の学校・昌平黌(しょうへいこう)で漢学を修めた。
文久三年(1863年)、吟香は眼病を患い、津山藩の洋学者箕作秋坪の紹介で、アメリカ人医師ヘボンの治療を受けた。
これが縁となって、ヘボンの辞書編纂を手伝うことになり、慶応三年(1867年)、日本初の和英辞書「和英語林集成」を刊行した。
語学に達者な人だったようだ。
岸田家墓地からしばらく南に進むと、岸田吟香生誕地の碑があった。
岸田吟香の生家は、今はなくなっており、跡地は田んぼになっている。
田んぼの畔道に細い石碑が立っている。これが岸田吟香生誕地の碑であるが、獣除けのための柵が巡らしてあって、田んぼの畔には入ることが出来ず、石碑には近寄れなかった。
岸田吟香は、元治元年に「海外新聞」を創刊した後、慶応四年(1868年)には、「横浜新聞・もしほ草」を刊行した。
明治6年には、東京日日新聞に入社し、主筆となる。翌年の台湾出兵では、我が国初の従軍記者となる。
その一方、ヘボン処方の目薬「精錡水」を販売し、明治10年に新聞社を退社してからは、売薬会社楽善堂を設立し、中国大陸に販路を確立した。また日中の友好・貿易のため、興亜会や東亜同文会の設立にも参加した。
栃原の旭川沿いに、岸田吟香の記念碑を中心に整備された吟香苑という公園がある。
吟香苑の中心に、岸田吟香の胸像と顕彰碑が建っている。
岸田吟香は、子宝にも恵まれた。彼の子で著名なのは、後に画家となった四男の岸田劉生である。
岸田吟香は、明治38年に72歳で死去した。充実した人生だったようだ。
幕末明治にかけて、日本の各地から有能な人物が出てきて、近代日本の礎を築いた。
幕末の激動期になると、幕府も諸藩も、身分や家柄よりも能力を重視して人材を登用した。
岸田吟香も農家の出だったが、幕末には、農家の子でも才覚があれば学問の世界を通して活躍の場が与えられたようだ。
当時の日本の指導者が能力重視だったことが、後の日本の発展の基盤となったと思う。
吟香苑を抜けると、旭川ダムが旭川を堰き止めて出来た旭川湖を一望できる展望所に出る。
ここから広々としたダム湖を眺め、深々と息を吸った。
水面に山の紅葉が映って美しかった。
日没前のダム湖の静かな風景に浸ってから、家路についた。