東遊園地から歩いて神戸市中央区京町に戻り、神戸らんぷミュージアムに赴いた。
神戸らんぷミュージアムは、関西電力が経営していた灯りに関する資料館である。令和4年2月28日をもって閉館した。
私が訪問したのは、閉館前の2月20日であった。当ブログの記事が、神戸らんぷミュージアムの最後の姿を伝えるものとなるだろう。
神戸らんぷミュージアムは、神戸市中央区北野町にあった北野らんぷミュージアムを受け継ぐ形で、平成11年に開館した。
近年のコロナ禍による客の減少により、閉館することになった。
ランプだけでなく、歴史上の様々な照明器具を展示する見応えのある資料館であった。
間もなく閉館するのを惜しんでか、来館者がかなり多かった。
人類が人為的に火を起こして使うようになったのは、原人のころからと言われている。
石器時代の人類は、木の摩擦を利用して火を起こしていた。
それが次第に、火打ち石や火打ち金を打ち合わせ、火花を発生させて発火するようになった。
火打ち石には火花が発生しやすい石英が主に使われた。火打ち金は鋼鉄片が使用された。
こうした発火具によって得た火を他に移すために使われたのが火口(ほくち)である。
火口は、古くは枯れ枝や杉の葉が使われたが、江戸時代になるとススキ、ガマなどの穂に硝石、焼酎を加えて煮て、更に着色したものが商品として販売された。
鎌倉時代、室町時代の武士は、火打ち石、火打ち金や火口を入れた火打ち袋を刀に下げて携行した。
江戸時代になると、武士だけでなく庶民も火打ち袋を携行した。発火装置を持つことは、人を安堵させるのか。
古くから、夜間の携行用の照明として使われたのが松明である。
松明は、燃えやすい松、竹、樺などを手ごろな太さに束ね、先端に火を点けて手にもって周囲を照らすための道具である。
屋外に設置された灯りとしては、篝(かがり)という鉄で編んだ籠に木片を載せて燃やす篝火が使われた。
屋内照明の火元としてよく使われたのがヒデである。
ヒデは、松の木の中でも松脂の多い部分を細かく割って作った木片である。
江戸時代の庶民の家などでは、鉄の皿に足をつけたマツトウガイ、鉄の皿を吊るした吊りトウガイ、石皿などの上にヒデを置いて火を点け、照明にした。
平安時代から貴族の邸宅などで屋内照明として使われ出したのが灯台である。
灯台は、台架に載せた火皿に灯油を満たして、そこに灯芯を浸し、灯芯に着火して周囲を照らしたものである。
高さ1メートル以上の灯台を高灯台、50センチメートル以下のものを切り灯台と言った。
灯台の真下はどうしても暗くなる。灯台下暗しという諺はここから来ている。
高灯台は室内全体を照らす道具として、切り灯台は書見用に使われた。
風除けのため、火皿の周りを紙で覆い、携行できるようにしたのが行灯(あんどん)である。
行灯は、鎌倉時代には登場していた。江戸時代には、行灯を室内に置いて照明として使う置き行灯が広く用いられるようになった。
置き行灯は、最初は火袋(火覆いの紙)の底板に火皿を置いただけの簡素な造りだったが、次第に火袋の中央に横板を付け、その上に火皿を載せるくも手を付けたり、くも手を吊るしてその上に火皿を置いたりするようになった。
また火袋の一面を開けられるようにして、灯油や灯芯の補給をしやすくした。
また、行灯の台に引き出しを付けて、灯芯や点火具を入れられるように工夫した。
江戸時代後期には、火袋の一面を凸レンズやガラスにして、集光して読み書きし易いようにした書見用行灯が学者の間などで使われた。
我が国に仏教と共に伝来し、古くから神社仏閣や宮殿などで常夜灯として使われたのが灯籠である。
照明器具というより、装飾として用いられたものである。
江戸時代後期には、円形の火袋を二重にし、外側の火袋を回転させたら火袋が180度開く円周行灯が人気となった。
江戸時代には水運が盛んで、江戸や大坂では河や運河が四通八達し、川船が人々を乗せて動いた。
そんな川船の舳先に付けられたのが、船行灯である。
こうして見ると、火皿に灯油を満たして灯芯を浸した灯台、行灯、灯籠が、1000年近く日本の照明の主力として使われたことがわかる。
思えば世の中に照明がなければ、人間は日の出日の入りに従って生活するしかない。野生動物に近い生活である。
神戸らんぷミュージアムを見学して、照明というものが文明の第一の要素であることがよく分かった。