津山市加茂町ところどころ

 津山市加茂町の中心部にある万燈山古墳の見学を終えると、加茂町の中心部から倉見川沿いに北上した。

 県道336号線を約4キロメートル行くと、木もれ陽の森キャンプ場に入っていく細い道がある。

 このキャンプ場の中に、8世紀半ばのたたら製鉄の遺跡であるキナザコ製鉄遺跡がある。地名で言うと、津山市加茂町黒木になる。

 カーナビゲーションでキナザコ製鉄遺跡をセットすると、木もれ陽の森キャンプ場の奥地を指した。キャンプ場からどうやって遺跡まで行くのか分からなかった。

 キャンプ場の入口近くの駐車場に車をとめると、丁度キャンプ場の経営者と思われる年配の男性が近づいてきて、「もっと上に駐車していいですよ」と声をかけてこられた。

 私が、「実はキャンプに来たんじゃないんです」と答えると、怪訝な表情で、「どういう用件ですか」と訊いてこられたので、「ここに遺跡があると聞きましたんで」と答えた。

 男性は、「あ~」と驚いた声を出した。「大学の先生か研究者の方ですか?」と男性に問われたので、「いや、ちょっと違うんですが」と答えた。

 男性は、「ここにあるのは、ちょんまげより前の時代のたたら製鉄の遺跡じゃ。まあ、歴史を知るということは悪い事じゃない。司馬遼太郎もここに来たことがある。『もののけ姫』のころは、よく若い人が訪ねてきたもんだが」とおっしゃった。

 私は映画館で「もののけ姫」を観たことがあるが、映画の中でたたら製鉄の場面があったか思い出せなかった。

 キャンプ場の事務所棟の前に来ると、大きな石の上に、表面がごつごつした石が多数置いてあった。

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製鉄炉壁の破片

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 石の表面には、ところどころ赤茶色になっているところがあった。
 男性は、「遺跡のあたりで拾ったもんじゃ。炉の壁に使われとった石じゃ。赤い色が散っとるじゃろ。これが鉄じゃと思う」とおっしゃった。

 そして男性は、「この先を真っ直ぐ行って、トイレのある方に右に曲がると、グラウンドがある。グラウンドの中を通って、一方通行の標識のある道を歩いていくと、右手の斜面に遺跡の看板がある。ご自由にどうぞ」と親切に道の説明をして下さった。

 私が男性の説明通りの道順で歩いていくと、果たして遺跡の説明板があった。

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キナザコ製鉄遺跡の付近

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キナザコ製鉄遺跡の説明板

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 キナザコ製鉄遺跡は、昭和52~53年の発掘調査により、8世紀半ばごろの、長さ90センチメートル、幅70センチメートル、高さ65センチメートルの粘土製の箱型の製鉄炉であることが分かった。

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製鉄炉の発掘状況

 8世紀と言えば、奈良時代になるが、当時はまだ刀身が反った形の日本刀は存在しなかった。使われていたのは直刀である。直刀も、たたら製鉄で出来た玉鋼で制作されていたということになる。
 遺跡の辺りの斜面の断面を見ると、砂鉄を含んでいると思われる、赤茶びた層が斜めに走っていた。

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砂鉄を含んだ地層

 こうした砂鉄を含む地層を探して、日本中の山野を跋渉した人々がかつて存在したことだろう。
 さてここから、加茂町の中心街に戻り、今度は南西に走る。津山市加茂町行重に、真言宗の寺院、真福寺があるが、この寺域に改政一揆義民の碑がある。

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真福寺本堂

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改政一揆義民の碑

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 明治維新前夜の慶応二年(1866年)、3年来の凶作と、津山藩による厳しい年貢の取り立てで苦しんでいた領民を救うため、行重村の百姓直吉は、一揆ののろしを上げた。
 沿道の村々の百姓たちは続々と一揆に馳せ加わり、一揆の範囲は美作東部全域に及んだ。

 一揆勢は、年貢の減免や人足の差し止めなど、津山藩に十一箇条の要求を書いた嘆願書を差し出した。
 津山藩は、従来の納米制度を改め、手当米を百姓に給付して慰撫した。これを美作改政義民一揆という。

 直吉は捕縛され、翌年に永牢となったが、維新後大赦となって出獄した。しかし、出獄してすぐの明治元年に死去した。
 この石碑は、一揆から90年経った昭和31年(1956年)に、一揆の快挙を記念して建てられたものである。

 江戸時代を通して、年貢に苦しむ百姓による一揆はたびたび起こったが、どれも年貢の減免を要求するばかりで、武士の政治を打倒するという運動には発展しなかった。

 しかし、戊辰戦争で官軍が連戦連勝できたのは、百姓が官軍を支持したからだと思われる。地元民の支持を得なければ、内戦に勝つことはできない。

 百姓は、自ら武士を打倒しようとは思わなかったが、幕府を倒す勢力が現れた途端に、そちらに加担し、将来発足するであろう新政権に、年貢減免の期待をかけたのだと思われる。

 正長二年(1429年)に播磨で発生した播磨土一揆では、蜂起した群衆が、守護大名の軍兵や荘園代官に攻撃を加えて追い出しにかかった。

 最後は赤松満祐の軍勢に鎮圧されたが、当時の文献によれば、一揆勢は「侍をして国中にあらしむべからざる所」(播磨国に侍はいらない)と唱えて戦ったと言われている。

 自分たちは食料を作らずに、武器をちらつかせて百姓が作った食料の半分を彼らから奪い取る武士の所業は、確かに現代の暴力団よりひどいが、その武士を国から追い出すという思想が、一度は播磨で生まれながら、日本で主流にならなかったのはなぜだろう。

 別に私は社会主義者でも共産主義者でもないが、民が作った食料を貰って政治を行う者は、民のための政治を行うべきではないかと思う。