最近書店で、アレックス・カーという方が書いた、「ニッポン巡礼」(集英社新書ヴィジュアル版)という写真が豊富に載った本を手に取って読んでみた。その中で、鳥取県八頭郡智頭町智頭の石谷家住宅のことが紹介してあった。
アレックス・カー氏は、滞日40年以上に及ぶ東洋文化研究者で、白洲正子の「かくれ里」に触発されて、日本各地のひっそりした寺社や山間の集落や棚田などを訪れては著作で紹介している。
アレックス・カー氏は、「ニッポン巡礼」の中で、石谷家住宅のことを、「民家の東大寺」と呼んで絶賛している。
今回私も石谷家住宅を訪れて、こんな見事な民家が智頭町にあったことを知って驚嘆した。
石谷家住宅は、敷地面積約3000坪、部屋数40余り、7棟の土蔵を有する大規模な邸宅で、約400坪の池泉式庭園を備えている。
6月1日の「智頭宿 前編」の記事で紹介した、消防屯所の2階から、石谷家住宅の全容を眺めることが出来る。
石谷家住宅は、周囲を瓦屋根を載せた縦板張りの土塀で囲まれ、潜り戸を備えた冠木門から敷地に入るようになっている。
石谷家住宅は、当主石谷伝四郎が、大正8年(1919年)から約10年かけて自邸を改築させたものである。
大正から昭和初期にかけての改築から約100年経ったわけだ。石谷家住宅は、現在は国指定重要文化財となっており、庭園は国登録名勝となっている。
石谷家は、元禄時代に鳥取城下から智頭宿に移り住み、塩屋の屋号で商売を始めた。明和九年(1772年)には、鳥取藩から智頭の大庄屋になることを命じられた。
明治の当主・石谷伝九郎は、商業資本家となり、地場産業の振興を図り、地域経済を支えた。
今の石谷家住宅を築いたその子の伝四郎は、明治30年代には山林経営と農民金融を発展させ、衆議院議員、貴族院議員にもなって、政界でも活躍した。
冠木門を潜って敷地に入ると、大きな主屋と、主屋に渡り廊下で接続した本玄関が見える。
江戸時代には、藩主池田公が参勤交代で智頭宿を訪れた際は、本陣に宿泊した。藩主に随行した上級武士たちは、在地役人でもあった大庄屋の石谷家に宿泊した。
大正時代に改築した際に、鳥取藩当時の家格を表すために式台(本玄関)が作られた。
本玄関と主屋の間の渡り廊下には、脇玄関がついている。
この本玄関と脇玄関は、現在は入口としては使用されておらず、本玄関を入った空間は洋間の応接室に改装されている。
本玄関内は、また後日紹介する。
大戸口から主屋に入っていく。
大戸口の周囲を囲む木材の木目が美しい。石谷家住宅は、ホームページでは「樹霊の館」という名で紹介されている。
確かに木造の民家としては、日本屈指の大建築だと思う。
大戸口を潜り、受付で見学料を支払い、その先の引き戸のある入口から入ると、高さ約14メートルの吹き抜け空間を誇る巨大な土間がある。
土間に入ると目を奪われるのが、八角形に加工した赤松の巨木を縦横に組み合わせて築いた梁組である。
この梁組を見上げてカメラのフラッシュを焚くと、屋根裏まで組まれた木組みが見渡せる。幾何学的な木造建築の美である。アレックス・カー氏が、ここを「民家の東大寺」と呼んだ理由がこれだけで首肯できる。
それにしても、太くて立派な木の柱を見ると、どうしてこうも気持ちが安らぐのだろう。
上の梁組があまりに立派なので、土間の写真を写すのを忘れてしまいそうになる。
しかし、土間の吹き抜け空間が高いので、全貌をカメラに収めるのは難しい。
土間の壁には、明治時代の米国製の壁時計と、建築当時の電気のスイッチが今も掛けられている。
また、土間には、調理のための煉瓦製のクドがある。
土間の北西角には、1階が女中部屋、2階が夜番部屋となった一角がある。
この女中部屋で起居した女中が、先ほどのクドで食事の支度などをしたのだろう。
女中部屋には、古いミシンが置いてある。私の祖母の家にも似たようなミシンが置いてあった。当時の女中の縫物の様子が偲ばれる。
女中部屋からは、階段で2階の夜番部屋に上ることが出来るようになっている。
夜番部屋に上ると、部屋の壁を赤松の梁が貫通していて、間近でそれを眺めることが出来る。
また夜番部屋は、土間の吹き抜けとつながっていて、吹き抜けの梁を目の前に見ることが出来る。
木材は、切り倒されて建築に使われるた後も、年月が経つと共に強度を増していくという。まさに生きた資材である。
そう考えると、木材を使用した建物は生きているとも言える。
世界の国々で日本ほど古くからの多種多様な木造建築物が残っている国はないと思う。同じ東洋の国でも、中国はどちらかというと石造建築がメインの国だ。
木造建築大国の日本に生まれたからには、この国に残る多種多様な木造建築に触れたいものだ。