令和元年6月から史跡巡りを始めて、1年半が経過したが、今までは兵庫県と岡山県の史跡巡りを続けて来た。
今回初めて鳥取県の史跡を紹介することになった。私が史跡巡りで訪れた3つ目の県だが、国で言えば鳥取県東部は因幡であり、私が史跡巡りで訪れた国としては、播磨、備前、美作、摂津、但馬に続く6つ目の国となる。
鳥取県に足を踏み入れるに当って、私の史跡巡りのガイドの歴史散歩シリーズの一つ、「鳥取県の歴史散歩」を購入した。
鳥取県は、日本で最も人口の少ない県であるが、「鳥取県の歴史散歩」を開いてみて驚いた。鳥取県は史跡の宝庫なのである。
今日紹介する不動院岩屋堂も、まだまだ知名度は全国区ではないが、全国に知られるべきお堂である。
スイフトスポーツに鞭を入れ、国道29号線を北上し、兵庫ー鳥取県境の戸倉峠を越える。
峠を越えれば、そこは因幡だ。
鳥取県八頭(やず)郡若桜(わかさ)町岩屋堂の集落内に、不動院岩屋堂がある。
岩屋堂を一目見て、まさに「息を呑む」思いをした。言葉にならない感動とはこのことだ。
掲載した写真のとおり、不動院岩屋堂は、大きな巌洞の中に、入母屋造りのお堂が嵌めこまれたように建てられている。
屋根は前方が入母屋造り、後方が切妻造りの栩葺きで、建物の下の足組は、京都の清水寺本堂や奈良の東大寺二月堂と同じく、懸造と呼ばれる舞台造である。
この岩屋堂は、大同元年(806年)に建てられ、弘法大師が33歳の時に彫った不動明王坐像を安置しているという。
因幡の黒皮不動と呼ばれ、毎年3月と7月の第4日曜日に護摩法要が行われ、一般公開される。
その後弘仁十年(819年)に、妙見山神光寺という寺が創建され、不動院岩屋堂の本寺になった。
天正年間(1573~1591年)の秀吉の因幡侵攻の際に神光寺は焼失し、岩屋堂だけが焼け残ったという。
伝承によれば、岩屋堂は、大同年間に「国家安泰」を願う場所を探した飛騨の匠が、この巌窟を発見して建設したもので、その後建久三年(1192年)に、源頼朝が国家安泰を願って再興したのが現在の建物であるという。
昭和30~32年にかけて行われた修復工事で、柱や舟肘木、華頭窓、須弥壇の形式から、南北朝時代の建立と推測された。建物は、何度も修復された跡があったという。
不動院岩屋堂は、建物と巌窟が一体となった建物で、建物が納まるごつごつした岩も建築物の一部だと言ってよいと思う。
鳥取県には、この他に、日本一危険な国宝と呼ばれる投入堂もある。因幡や伯耆は、修験道の盛んな地域だったのだろう。
岩屋堂の隣には、これまた巌窟を利用した場所に建つ岩屋神社がある。
元々は、岩屋堂と岩屋神社は、一体のものであったのだろう。
不動院岩屋堂は、巨岩を神聖視する日本古来の信仰と、神道、密教が融合した修験道を象徴する遺物と言っていいだろう。
岩屋堂から西に100メートルほど歩くと、五輪塔や供養塔が多数建っている場所があり、その中に若桜町指定文化財の、岩屋堂の納骨壺入五輪塔がある。
小さな塔だが、鎌倉時代末期の様式を残す塔の完形としては、因幡唯一のものであるらしい。
年とともに驚くことが段々少なくなってきたが、こうして史跡巡りを進めて初めて知ることに出会うと、まだまだ日本にはあまり知られていない驚くべきものが残っているなと感じる。