若桜街道の新町入口交差点から南東に行くと、正面に浄土宗の寺院、三昧山一行寺の山門が見えてくる。地名で言うと、鳥取市戎町にある。
一行寺は、往古は鳥取近郊の田島にあったそうだ。天正五年(1577年)に鳥取城下の栗谷に移り、寺号を一行寺と改めた。
寛永九年(1632年)の池田光仲の国替えに伴って、栗谷が龍峰寺の寺域となった。
そのため、一行寺は現在地に移転されたという。
一行寺の本堂の格天井には、職人町生まれの日本画家、八百谷冷泉の天井画が描かれているという。
本堂には入ることが出来なかった。
又、一行寺には、因幡守護山名氏重が造立した宝篋印塔の台座が残されている。応安四年(1371年)二月二十八日の銘があるそうだ。
同月に没した山名時氏を供養するためのものだろう。
この宝篋印塔の台座は、享保年間(1716~1736年)に西館池田家の屋敷普請の時に掘り出されたものだと言われている。
本堂の裏側には、墓地が広がる。
墓地には、鳥取藩大寄合格を勤めた福田家歴代の墓がある。
墓地の南側には、戊辰戦争の際に、佐分利鉄次郎隊の砲長として上野彰義隊との戦いに従事し、34歳で戦死した瀧金一(則龍)の墓がある。
徳川家の縁者であった鳥取藩池田家も、戊辰戦争では倒幕側として戦った。時代の変遷というものは、予想もつかないものである。
浄土宗の開祖法然上人は、比叡山に学んだ人である。浄土宗寺院の境内に、比叡山を開いた伝教大師最澄ではなく、弘法大師空海を祀っているのが不思議である。
最澄はどちらかというと学僧タイプであり、空海が行者タイプであったという所に答えがあるのではないか。
空海も偉大な学僧であったが、山に入って修行した行者でもあったというのが、後世の宗教家たちの畏敬するところとなった。
日本で尊敬される偉人は、行動的な人間である。
かつての中国の儒教文化は、手を使う肉体労働を極端に卑下するところがあった。軍人などは、中国では低く見られたものである。今でも中国では、手を汚す仕事である医者の社会的地位は、日本より低いという。
武家が長らく政権の座にあった日本は、体を使って行動する人物を尊敬する文化を有している。
これが日本の強みであると思う。