明石市の文化エリアでもある明石公園の東側に、明石市や周辺から発掘された考古資料等を展示する明石市立文化博物館がある。
明石市立文化博物館の常設展会場に入って、真っ先に目に飛び込んでくるのは、アカシゾウの骨格標本模型である。
アカシゾウは、約200万年~60万年前まで日本に生息していたとされる象である。全高約2メートル程で、象としては小型である。
昭和11年に明石市西八木海岸で、象の歯が発掘された。発掘した学者は、この歯を持った象をアカシゾウと名付けた。
しかしその後、アカシゾウは、大正7年に金沢で発掘されたアケボノゾウと同種であると結論付けられた。この博物館では、アカシゾウと呼んで展示している。
アカシゾウの臼歯が発掘された西八木海岸からは、当ブログ今年2月19日の記事「魚住の泊 明石原人」で紹介したように、一時原人の化石かと世間を騒がせた、人間の寛骨が発掘されている。
発掘された寛骨の原本は、今となっては失われてしまったので、学術上の結論をつけることは出来なくなってしまった。
しかし、西八木海岸の近くの藤江川添遺跡からは、縄文時代より前の約3万年以上前の地層から、メノウ製のハンドアックスが発掘されている。
この形の握斧(ハンドアックス)は、原人、旧人が使用していたものに似ているそうだ。出て来た地層からして、少なくとも明石には、かつて旧人たちが住んでいたのは間違いないらしい。
館内で目を引く展示品は、明石市高丘の高丘3号窯跡から出土した、飛鳥時代の鴟尾である。
おそらく、駅家や国府や郡衙などの官庁の建物用に焼かれたものだろう。
あまりにも綺麗に残っているので、複製品かと思いきや、どうやら実物らしい。兵庫県指定文化財である。
また、明石市の江井島漁港の辺りには、天平年間(729~749年)に行基が摂津播磨に設置した港である摂播五泊の一つ、魚住の泊があったとされる。
昭和54年と昭和61年に、江井島漁港付近から、松材15本が引き上げられた。木の一部の年代測定をすると、10世紀初頭のものと分かった。
魚住の泊の港湾設備の基礎材として使われたもののようだ。館には、その松材の一部が展示されている。
明石では、海産物が盛んに獲れる。明石海峡は、潮の流れが速く、その環境に晒された魚やタコ、イカは、身が引き締まるようだ。
明石海峡の海底図の模型が展示してあった。デフォルメされているとは言え、潮流に沿って海底が削られて深くなっているのがよく分る。
潮流が速いせいで、舞子から明石にかけては砂が吹き寄せられ、長大な砂浜が形成されている。砂地の海には、鯛やイカナゴの子が集まり、それを追ってスズキやサワラなどの大きな魚も集まって来るそうだ。
蛸壺漁や、イカかご漁の資料が展示してあった。
明石と言えば、タコを玉子焼きに包んで、出汁につけて食べる明石焼きである。私はタコ焼きより好きである。
毎年この季節になると日本中を沸かせているのが、阪神甲子園球場を会場とする全国高等学校野球選手権大会だが、その前身は、全国の旧制中学校野球部の大会だった全国中等学校優勝野球大会である。
第1回大会は、大正4年に大阪の豊中球場で行われた。大正13年の第10回大会から、会場が阪神甲子園球場に変更される。
昭和8年の第19回大会の準決勝では、明石中学(現明石高等学校)と中京商業(現中京大付属中京高校)との間で、延長25回まで及ぶ大会史上最長の試合が戦われた。
現在に至るまで、この延長25回という記録は破られていない。
館には、この試合の時のスコアボードの写真が展示されているが、16回を超えても0が並ぶスコアボードが続いている。
明石市民にとっては忘れられない試合で、戦後も長い間語り伝えられたのではないかと思われる。
明石市二見に代々居を構えていた横河氏は、家に伝わる江戸時代から明治時代にかけての古文書等2982点を、平成27年に明石市に寄贈した。
その中でも、24代横河重陳が、洲本藩主池田忠長の船大将となり従事した、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣伯楽渕の戦いで、一番槍の勲功を上げたとして、徳川家康から賜った感状は貴重な資料である。
各自治体は、大体この文化博物館のような、発掘された遺物を収蔵する設備を持っているが、地域地域に特色があって面白い。
地味ではあるが、各地域の資料館に足を運べば、今まで知らなかった発見がありそうだ。