大多羅寄宮跡

 西大寺からしばし西に行く。JR赤穂線大多羅駅の北側に芥子山(けしごやま)が聳えている。

 この山の尾根上にあるのが、大多羅寄宮(おおだらよせみや)跡である。

 寛文六年(1666年)、岡山藩池田光政は、領内の神社整理を行い、小社小祠を71の寄宮に統合して祀った。その子綱政が事業を受け継いで、領内にあった66の寄宮を一つにまとめたのが、大多羅寄宮である。

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JR大多羅駅と背後の山

 大多羅寄宮跡のある芥子山には、JR大多羅駅の東側の踏切から登っていくことが出来る。

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大多羅寄宮跡への登り口

 大多羅寄宮跡に至る途中に、布勢神社がある。

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布勢神社鳥居

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布勢神社社殿

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拝殿正面

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本殿

 布勢神社は、大己貴命と句々廼馳命(くぐのちのみこと)を祭神とする。宝亀二年(771年)にこの地に勧請されて創建された神社であるらしい。

 大正時代になって廃絶された大多羅寄宮に祀られていた神々も、現在は布勢神社に合祀されている。

 池田光政や綱政が、藩内の神社整理をして廃絶させた、1万を超える神社の神々が、今はこの布勢神社に集まっていることになる。

 布勢神社の社頭には、幕末に岡山藩が生んだ国学者歌人の平賀元義の歌碑がある。

 平賀元義は、寛政十二年(1800年)に現在の倉敷市玉島陶に生まれた。岡山藩士の子だったが、家を継がずに天保三年(1832年)に脱藩した。

 元義は、独学で国学を勉強し、備前、美作、備中の各地を放浪しながら、中国地方の地理歴史、神社史などを研究した。更に万葉調の和歌を歌った。

 晩年、尊王思想が流行する中、元義は岡山藩から脱藩の罪を許され、この地に至り、布勢神社の神官だった中山縫殿之助宅に寄宿した。

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平賀元義歌碑

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 歌碑の横の説明板を読めば、なるほど万葉調の歌の中に、意地とユーモアを交えている。

 人は私を年寄りと言うが、年を取っても身体が元気な間は、日本中を歩いて古書を読み、我が国の国柄を説き示そう。いざというときは、老いたりとは言え、天皇の為に死のう、という歌意である。

 元義が脱藩した真意は分らない。恐らく国学に目覚めた元義は、儒教を基盤にして領内統治をしていた岡山藩の政治に飽き足りないものを感じたのだろう。

 元義は、天皇の世が来る直前の慶応元年(1866年)に亡くなったが、もし明治時代まで生きながらえていれば、もっと脚光を浴びていたかも知れない。

 布勢神社の境内には、元義の短歌の歌碑もある。

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短歌の歌碑

 元義は自らの和歌を、余技だと言って韜晦したが、明治に入って正岡子規斎藤茂吉に高く評価されるようになる。

   平賀元義は、没後布勢神社近くの千福山宝泉寺に葬られた。

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平賀元義の墓

 墓石自体は新しい。地元の人に愛されている証だろう。

 さて、布勢神社から更に山を登ると、国指定史跡の大多羅寄宮跡に至る。

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大多羅寄宮跡

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 大多羅寄宮跡には、今は石段と小さな祠、鳥居があるだけである。

 岡山藩池田光政は、寛文六年(1666年)に、領内の神社のうち、主要な神社と産土神601社を残し、10,524社を廃して71社の寄宮に合祀した。一挙に1万の神々を整理統合したのだから、驚くべき宗教改革と言っていい。

 正徳三年(1713年)、池田綱政は、この地にあった句々廼馳神社の境内を拡張し、66社の寄宮を移して合祀した。それが大多羅寄宮である。

 岡山藩領内の神社に祀られていた1万近くの神々の大半が、この地に集められたのである。

 岡山藩の神社に対する態度を見ると、平賀元義が岡山藩を見限ったのも分る気がする。

 大多羅寄宮には、毎年岡山藩から修理料と御供料が支給されていたが、明治時代に入ってそれも途絶えた。

 大正6年、荒廃していた大多羅寄宮は廃絶され、寄宮の祭神は、句々廼馳命と共に布勢神社に合祀された。

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かつての鳥居

 大多羅寄宮跡には、かつて建っていた鳥居の残骸が置かれていたが、どことなくもの淋しい。

 平賀元義は、かつて寄寓した布勢神社の近くの寺に眠っているわけだが、自分の死後この神社に岡山藩が整理した神々が合祀されたことを知って、泉下で少し複雑な気持ちになっているのではないかと想像した。