「鷗外全集」

 新型コロナウイルスの影響で史跡巡りを自粛しているので、記事は史跡の紹介からしばらく離れる。

 しばらく、マニアックな記事が続くかも知れない。多くの人に読んでもらうことなど最初から期待していない私の独り言のようなものなのだが、読んで参考にする方がいれば幸いである。

 新型コロナのせいもあるが、最近、人生において真に必要なことは何かを考えることが多くなった。

 自分の生命と健康は当然として、仕事と衣食住の確保は必要なことである。家族や職場の同僚や友人との関係も大事なものである。人は一人では生きてゆけない。

 以上のものは、人生を送るにあたって真に必要で外せないものである。

 これを確保できて、ようやく次の趣味の世界の話になる。私にとって、趣味の世界で要らないものを切り捨てて最後に残るものは何かを考えると、答えは読書、中でも尊敬する森鷗外の全文業を収録した「鷗外全集」を読むことに行き着く。他の旅行やスイフトスポーツでのドライブや音楽鑑賞は、最終的に無くても良いものである。しかし、鷗外を読むことを外せば、私が私でなくなる気がする。

 たかが一作家のことで、何を大げさな、というお叱りの声が聞こえてきそうだが、これが私の正直な気持ちなのである。これからその理由を述べる。

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我が書架の「鷗外全集」

 鷗外の文章が古今独歩の見事なものであるということは、今まで鷗外を崇拝する数多くの文学者が書いてきたから、私がここであらたに付け加えるまでもない。

 鷗外は文久二年(1862年)に、石見国津和野藩の藩医の家に生まれた。当時の武家の子弟の例に洩れず、幼時から藩校に通い、満5歳から「論語」の素読を始め、7歳で儒学の古典である四書を、8歳で五経を復読した。鷗外の漢文の素養は、彼の血肉になっている。鷗外は、儒学漢詩だけでなく、唐宋明清の小説や、中国の医学書まで読んだ。

 その傍ら、「万葉集」「伊勢物語」「古今和歌集」「源氏物語」などの日本の古典や近世の浄瑠璃、馬琴、山東京伝などの小説類も読んだ。

 鷗外は、12歳の時からドイツ語を習い始め、ドイツに留学してからは、おもにドイツ語でギリシア悲劇やダンテ「神曲」、シェイクスピアの諸作、「ゲーテ全集」、19世紀現在のヨーロッパの小説などを読んだ。

 和漢洋の素養と言うが、和漢洋の古典を隈なく読んだ文学者は、日本史上鷗外しかいないのではないか。

 紫式部近松門左衛門も「ギリシア悲劇」を読まなかった。川端康成三島由紀夫のような文学者でも、われわれ現代人と同じで、5歳から漢籍に親しむような教育は受けていない。漱石漢籍と英文学はよく読んでいたと思われるが、恐らく日本古典はあまり読んでいなかっただろう。幸田露伴は、和漢の古典はよく読んでいたが、ヨーロッパの文学はほとんど読んでいなかったのではないか。和漢洋の文学に通じた人は、歴史上なかなかいないのである。

 幼時から漢籍に親しむような教育は、江戸時代後期から明治時代初期までで絶えてしまった。少年時代に得た漢籍の素養を血肉にして、西洋文学に通じた人は、日本の歴史上、江戸時代後期に藩校で教育を受け、明治時代に西洋文学に接した人しかいない。そんな人は、日本史上、鷗外、漱石くらいしかいないのである。こういう人は、歴史上二度と現れないのである。

 最近、ちょっと名の知れた文学者に、すぐ文豪という言葉をつけたがる風潮がある。私は日本で文豪と呼ばれるには、漢籍の素養が血肉になっていなければいけないと思う。なので、太宰治芥川龍之介三島由紀夫には文豪という冠は被せたくない。

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岩波書店第三次「鷗外全集」

 鷗外の文章は、漢文を主とした和漢洋の文学の素養と、医学を学んで得た客観的で冷静な物の見方が融合したところから生み出された、簡浄を極めたものだが、簡潔なようで独特の重厚な味わいがある。

 鷗外没後に最初に編集された「鷗外全集」が刊行された際、鷗外を師と仰ぐ永井荷風は、「鷗外全集刊行の記」にこう書いている。

森先生の使用せらるゝ漢字は大抵説文(せつもん)に基くものにして、俗語體の小説戲曲の文中にも古來襲用の誤字を訂し、審(つまびらか)に之を改め用ひられたり。之を以て現代人の用語と先生の措辭とは往々相同じからざるものあり。例へば構を搆となし譯を訣となし窓に窗を用ひ飜に翻を用るのたぐひなり。 

  文中の「説文」とは、「説文解字」という、中国漢の時代に許慎という人が編集した最古の漢語辞典である。現代人も使う部首ごとに漢字を分けて解説する漢語辞典は、「説文解字」がその起源なのである。

 鷗外は、「説文解字」を日ごろから研究していて、自己の作品の漢字は、「説文」の用法に従って使っている。「わけ」と書くときに、鷗外が必ず「譯」ではなく「訣」の字を使うのはそのためである。現代では「訣」の字を使わないので、現代人が読むと鷗外が誤って書いたのかと勘違いするが、そうではないのである。

 例えば鷗外は、「はいる」と書くときは、必ず「這入る」と書く。「入る」は「いる」と読むのであって、本来「はいる」は「這入る」と書かなければならない。

 鷗外を読むことで、東洋数千年の漢語と古語の世界を旅することが出来る。

 例えば、昨日私は、ドイツの奇想の作家クライストの短編小説を鷗外が翻訳した「地震」を読んで、感銘を新にした。

 この小説のあらすじはこうである。

 チリのサンチアゴの富豪の娘ジョセエフは、使用人のゼロニモと恋仲になる。二人の仲に反対するジョセエフの父は、ゼロニモを追い出し、娘を尼寺に入れる。ゼロニモは尼寺に忍び込み、ジョセエフと通ずる。ジョセエフはゼロニモの子を身ごもり、出産するが、戒律の厳しいカトリックの国ゆえ、ゼロニモは牢屋に入れられ、ジョセエフは処刑されることになる。しかし、ジョセエフの処刑寸前、サンチアゴを揺るがす大地震が起こり、ゼロニモは牢を脱出し、刑場にひかれていたジョセエフも難を逃れる。二人は奇跡的に再会し、二人の子も無事だった。

 二人は、被災したサンチアゴ市令の息子「ドン」フェルナンドと知り合う。

 近くの教会で、神に祈りを捧げる集会があるため、フェルナンド一家とゼロニモらは教会に赴く。しかし、教会で群衆に説法する老僧は、ゼロニモとジョセエフの密通という罪科が、神の怒りに触れ、この災害を起こしたと説法し、二人を地獄に落とすよう叫ぶ。群衆の中でジョセエフの顔を知る靴造りのペドリルロが、説法を聴く群衆の中からジョセエフを見つけ出し、怒り狂う群衆に知らせる。ゼロニモとジョセエフは群衆に叩き殺される。

 群衆は、二人の子供も叩き殺そうと殺気立つ。ジョセエフの子供(フィリッポ)と自身の子供(ホアン)を抱えるフェルナンドの下に群衆は殺到する。ペドリルロは、ジョセエフの子と間違えて、フェルナンドの子ホアンを殺す。

 鷗外の訳文はこうである。

 靴造りペドリルロは身に浅痍(あさで)を負ひしが、猶懲りずまに進み近づきて、フエルナンドが抱きたる一人の子の足を握りて引きずりおろし、これを誇りかに高くさしあげ、輪の如くに振り廻して、寺の隅柱(かどばしら)に打ちあてて殺しぬ。

 これにて人の心静まりて、皆次第/\に散じぬ。

 「ドン」フェルナンドは我子ホアンの脳髄溢れいでゝ地上に死したるを見て、泫然(げんぜん)と涙を流し、大空を打ち仰ぎたり。

  残酷にして凄惨な文章だが、残酷な場面を冷静に観察するかのように簡潔に書いた、文語体の見事な訳文である。鷗外は、クライストの文を「簡厳にして偉麗」と評し、歴史上の出来事を簡厳な文で綴った中国の古典「春秋左氏伝」に比している。

 ところで、泫然という言葉は、普段の生活で目にすることはない。私は「鷗外全集」にあまりにも読めない語が頻出するので、何とか読みこなしたい一心で、世界最大の漢和辞典大漢和辞典」の古本を買った。

 「大漢和辞典」で、泫然を引くと、こうある。

【泫然】ゲンゼン 涙がはらはらと落ちるさま。〔礼、檀弓上〕孔子泫然流涕(以下略)

 〔礼、檀弓上〕の礼は、儒教の古典「礼記」(らいき)のことで、「礼記」の「檀弓上」の章に、「孔子ハ泫然ト涕(なみだ)ヲ流シタリ」という用例があるという意味である。

 「礼記」は儒教の古典である五経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」)の中の一つで、鷗外が8歳のころに読んだものである。明治23年、鷗外28歳の時に、クライストの「地震」を翻訳した際、この場面に至って、「礼記」中の「泫然」の語が心頭に浮かんだのであろう。

 和文漢籍に通じ、ヨーロッパの文学を理解した鷗外だけが成し得る訳業である。これは鷗外の文業の宏壮深遠を証するほんの一例に過ぎない。

 鷗外の文章には、「古事記」から「万葉集」、平安朝文学、近世文学に至る様々な時代の我が国の古語が出てくる。まるで古言のデパートである。

 「鷗外全集」を読むことで、日々国語と漢語の数千年の歴史を旅することが出来る。こんな経験は、鷗外以外の作家の作品を読んでも出来ない。

 鷗外の文業は、日本と中国の言葉の世界の博物館のようなものである。「鷗外全集」が家にあることは、さながら言葉の世界の故宮博物院東京国立博物館が家にあるようなものである。家に故宮博物院東京国立博物館があるならば、人生それでOKではないか?

 「更級日記」で、菅原孝標女は、長年憧れた「源氏物語」五十四帖を一の巻から読み始めた時の気持ちをこう書いている。

源氏を、一の巻よりして、人もまじらず几帳の内にうち臥して、引き出でつつ見るここち、后の位も何にかはせむ。

 「源氏物語」を読む感動に比べれば、皇后の位も何ほどのことがあろう、という気持ちである。

 私が「鷗外全集」を読むときの気持ちもこれに近い。

 家族愛や同僚愛といった生身の人間の有難さを除けば、私がこの世に生まれてから目にしたものの中で、鷗外の文章は群を抜いて素晴らしい。

 終生鷗外を師と仰いだ永井荷風は、昭和34年に孤独死した。荷風が絶命した時、枕元には、ページに荷風が吐血した跡のある「鷗外全集」が開かれていた。鷗外の文業には、人に人生を賭けていいと思わせるものがある。

 鷗外も生身の人間に過ぎないので、人として欠点もあったことだろう。脚気問題などで鷗外を批判する人は多い。しかし、鷗外文学の香気と奥深さと高さには、何人も及び難い。二度と世に現れぬものである。

 そんな鷗外の気高い文章に対する時、富士の高峰を仰ぎ見るかのように口を開けて呆然とするばかりである。