周匝城跡から北東に行った岡山県久米郡美咲町飯岡(ゆうか)にある大平山は、標高約314メートルの山である。
この山の山頂に、5世紀前半に築造された月の輪古墳がある。
大平山山頂近くまでは、舗装路が続いている。月の輪古墳の手前まで、自動車で行くことが出来る。
月の輪古墳は、高さ約10メートル、直径約60メートル、墳頂部の直径約17メートルの円墳で、北側に造り出しが設けられている。
斜面には角ばった葺石が葺かれ、墳頂の縁、段上、裾には埴輪が置かれていた。
古墳に近づいて下から眺めたが、墳丘上の雑草雑木が除けられて整備されており、綺麗に古墳の形が判別できる。「美墳」という言葉は世の中にはないが、こういう呼び名で呼びたいほど美しい古墳だった。
造り出しの形も明確に認識できる。造り出しからは、木棺粘土槨が出土したが、副葬品が全くなく、月の輪古墳に埋葬された主に従う人物が埋葬されていたと考えられている。
円墳の斜面には、角ばった葺石が半ば埋まっている。
墳頂まで登れば、平な墳頂部から四囲を眺めることが出来る。
墳頂部の地下からは、中央棺と南棺の2つの棺が出土した。
棺が発掘された場所の周りをコンクリート柱で囲んでいる。
中央棺には、男性が埋葬されていて、棺から首飾り、鏡、刀剣などが出土した。この辺りを治めた豪族の首長の墓だろう。
南棺には、女性が埋葬されていて、棺から首飾り、鏡、櫛、刀剣、石釧などが出土した。首長の妻の墓だろう。
棺が埋葬されていた場所の周囲には、家形埴輪、盾形埴輪などの形象埴輪が置かれていたようだ。
大平山の麓には、月の輪古墳から出土した出土品を展示する月の輪郷土館がある。
月の輪郷土館は、普段は閉まっているが、館を管理する近隣住民に電話をすれば開館してもらえる。館前の看板に記載されていた携帯電話に電話をかけると、年配の男性がやってきて館を開けてくれた。
郷土館には、月の輪古墳だけでなく、美咲町から発掘された考古資料が展示されている。入ってすぐの場所にある、亀甲型陶棺は、美咲町宮山赤塚古墳から出土したものである。こんな巨大な陶器をどうやって作ったのだろう。
また、中央棺出土品の勾玉、管玉、鏡、鉄剣、短甲などは、当時の権力者の姿を彷彿とさせるものである。
南棺からの出土品の勾玉と管玉は、女性的な優美なものであった。
月の輪古墳の墳頂上には、様々な形の埴輪が置かれていたが、家形埴輪はなかなか大きなものであった。埋葬者の生前の住居を模したものであろうか。
大平山の南側の、飯岡の集落の中に、江戸時代後期の歌人・平賀元義が開いた私塾である楯之舎塾の跡がある。
平賀元義は、寛政十二年(1800年)、現倉敷市玉島陶において、岡山藩の老臣平尾長春の長子として生まれた。後に脱藩して本姓に復し、平賀元義を名乗るようになった。
歴史、地理、神道などの古学に通じ、和歌をよくした。その萬葉調の和歌は、明治時代に正岡子規が評価した。
元義は、備前や因幡の門人の家などに寄宿しながら渡り歩き、弘化四年(1847年)から飯岡周辺の神官や門人宅をしばしば訪れた。門人となった矢吹氏の援助で、安政四年(1857年)にこの地に楯之舎塾を開いた。
楯之舎塾跡には、平賀元義の「山風に河風そひて飯岡の 坂田の御田は涼しかりけれ」という歌が彫られた石碑が建っている。
しかし、楯之舎塾は経営難となり、2年後の安政六年(1859年)に閉塾となる。
今回訪れた月の輪古墳のように、日本の古墳が明確に墳形を判別できるようであったら、古墳めぐりももっと面白くなるだろう。
まあ、時代の経過とともに樹木に覆われて、小山のようにしか見えなくなった古墳も、それはそれで時代を感じていいのかも知れないが。