誕生寺を創建したのは、一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った後、世の無常に目覚め、出家して法然上人に弟子入りした熊谷直実こと法力房蓮生である。
法然は、43歳の時に自分の像を自作した。
建久四年(1193年)、蓮生は法然の意を受け、法然自作の御影像を、法然の生誕地である漆間時国の屋敷跡の、父母の墓の前に安置し、寺院を建立した。
これが、誕生寺の開創とされる。
法然上人の御影像をご本尊とする御影堂(本堂)は、元禄八年(1695年)に再建された三代目で、国指定重要文化財である。
御影堂は、宝形造の屋根の上に入母屋造の屋根が載り、唐破風の向拝が付く。
屋根の上には、金色に輝く宝珠が載っている。
宝珠は、誕生寺七不思議の一つで、西方極楽浄土を象徴するものであるらしい。
それにしても、誕生寺御影堂は、華麗に装飾された御堂である。
特に向拝の下の彫刻が見事だ。彫刻の間の柱に、「禁裏御用」と書かれ、その周囲に4名の名が書かれている。当時の御所の御用職人が、御影堂の建立に関わっていたのだろうか。
御影堂の外観の装飾をたっぷりと堪能してから、中に入る。
御影堂内部は自由に出入り出来る。私の経験では、浄土宗や浄土真宗の寺院は、本堂に自由に出入りできるところが多い。
内陣欄間の彫刻が見事である。その奥に、ご本尊の御影像が祀られている。
御影堂の中心は、何といっても、法然上人の御影像であるが、御影堂の中で撮影が禁止されているのは、唯一この御影像だけである。撮影は出来ないが、像のすぐ側まで近づくことが出来る。
写真では紹介できないが、御影像は、法然上人が生きてそこに座っておられるのかと錯覚するほど、リアルな像であった。黒ずんだ古い像だが、上人は鼻筋の通った、中々男前の容貌であった。
内陣の奥には、誕生寺ゆかりの品々が展示してある。
誕生寺では、毎年4月第3日曜日に、二十五菩薩練供養(お会式大法要)という祭礼が行われる。
日本三大練供養の一つで、お面を被った二十五菩薩たちが、誕生寺と周囲の町を練り歩く。
その際、法然上人の両親の供養も行われる。
法然は、自分の両親をいつまでも供養するため、この地に寺院を建てたのだろう。
さて、その隣には、誕生寺の開基である熊谷入道法力房蓮生大法師の坐像が祀られている。
法力房蓮生は、元々は熊谷直実という源氏の武将であった。一の谷の合戦で、平家の若武者平敦盛を討ち取ってから、武士の世界に無常を感じて出家した。
当ブログ今年11月18日の「須磨寺 その2」の記事で、須磨寺の源平の庭に建つ、馬上の熊谷直実の銅像を紹介したが、あの勇ましい武将が、この僧形になったと思うと、粛然とした気持ちになる。
しかし、数々の修羅場を潜り抜けた武将だけあって、力強い決然とした表情をしている。
意外なことに、御影堂には、八百屋お七の位牌と振袖があった。
八百屋お七は、江戸本郷の八百屋の娘で、天和二年(1683年)の大火で焼け出され、親と正仙院に避難したが、避難生活をした際に知り合った寺小姓に恋をした。
八百屋が再建されて家に戻ったお七は、火事になれば寺小姓とまた一緒に生活できると思い、自宅に放火する。
火は消し止められたが、木造建築が建ち並ぶ江戸は、火災があると延焼して恐るべき災厄となるおそれがあり、放火犯は幕府により死刑に処せられることになっていた。
お七は捕らえられ、火あぶりの刑により処刑された。
元禄十二年(1699年)、誕生寺第十五世通誉上人が江戸の増上寺に出開帳に赴いた際、お七の遺族がお七の着ていた振袖を持参し、通誉上人に供養をお願いした。
上人は火を転じて花とし、煙を転じて艶として、お七に「花月妙艶信女」という法名をつけた。
お七の振袖は、上人が誕生寺に持ち帰ったが、昭和45年の大阪万博に展示された際、恋愛成就のお守りにするつもりか、多くの観客にちぎり取られてしまい、今はようやく原型を留めている。
その隣には、誕生寺七不思議の一つ石仏大師がある。
天正六年(1578年)、住職深誉上人は、片目川で御影像に似た圓光大師(法然上人)の石仏を見つけた。
石仏は光を放っていたが、手に取ると光が消えて頭が垂れてしまった。
深誉上人は不吉な思いをし、誕生寺に異変が起こると予感し、御影像を境内の産湯の井戸に沈めた。
その直後、誕生寺は宇喜多直家勢の襲撃に遭い、御影堂が破壊された。幸い事前に井戸に沈められた御影像は助かったという。
その隣には、これまた誕生寺七不思議の一つ、「法然上人の文楽人形」が展示してあった。
大正の末、大阪文楽座で、「法然上人恵の月影」という人形浄瑠璃が演じられたが、千秋楽の夜に念仏を忌む者により文楽座が放火された。
文楽座は全焼したが、不思議と法然上人の人形の首だけが焼け残っていたという。
法然上人は、後世に朝廷から圓光大師という称号を与えられた。私は毎晩自宅で仏壇を前に真言宗のお経を上げているが、その経本になぜか圓光大師の御詠歌と和讃が載っている。
阿弥陀如来の本願に帰順し、南無阿弥陀仏の名号を専心に唱えるという法然上人のシンプルな教えは、他宗派にも大きな影響を与えたようだ。