餘慶寺 前編

 岡山県瀬戸内市邑久町北島にある上寺山餘慶寺は、天台宗の寺院である。

 寺は、小高い丘の上にある。神仏習合の名残か、餘慶寺と接して豊原北島神社が建っている。

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餘慶寺の案内板

 餘慶寺は、天平勝宝元年(749年)に報恩大師が開創した。備前四十八寺の一寺である。

 開創当初は、日待山日輪寺という名称だったが、平安時代に慈覚大師が再興した際に、本覚寺と改められた。

 その後、近衛天皇(在位1142~1155年)の勅願寺となり、上寺山餘慶寺と名を改めた。

 中世は、赤松氏、浦上氏、宇喜多氏の信仰を得て、江戸時代に入ってからは、岡山藩池田家の尊崇を集めた。

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上寺山餘慶寺の伽藍。手前から鐘楼、地蔵堂、本堂、三重塔、薬師堂

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本堂と三重塔

 餘慶寺本堂の御本尊は、千手千眼観世音菩薩立像だが、本堂が東側を向いているため、東向き観音と呼ばれている。

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本堂

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 江戸時代に、岡山藩主が江戸で在勤中の時、病にかかった。藩主の枕元に、五色の雲の中から現れた千手観音が立ち、「我は備前の東向き観音なり。このたびの病苦を逃れんとするなら、悩む心を祈る心に改め、あつく我を祈れ」と厳かに告げ、煙の如く消えたそうである。

 藩主が、国元の東向きの観音様を探すと、餘慶寺におられるのが分かった。厚く祈願すると、病がたちまち癒えたという。

 本堂の前には、甕に入った蓮の花が美しく咲いていた。

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本堂の前の蓮の花

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 本堂は、棟札によると、永禄十三年(1570年)に建立され、正徳四年(1714年)に修復された。国指定重要文化財である。

 正面の向唐破風は、江戸時代後期に付け加えられたものであるらしい。

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向唐破風

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蛙股の彫刻

 本堂には、慈覚大師が自ら彫ったと伝わる秘仏千手千眼観世音菩薩が祀られている。

 御本尊が祀られる厨子の御前仏として、中国の観音聖地である補陀山から勧請した千手観世音菩薩が祀られている。

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観音堂の額

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内陣の様子

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御前仏の千手観音菩薩

 本堂内陣は、きらびやかな密教の祭壇が築かれている。宇宙に遍満する仏様をお呼びして供養する空間である。

 厨子に向かって左側には、伝教大師最澄の御像が祀られている。

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伝教大師最澄

 私は、真言宗の宗徒であるが、超人的な弘法大師空海よりも、人間的な伝教大師最澄に親しみを覚える時がある。

 本堂の前には、平成14年に、中国観音霊場会と補陀山との友好交流10周年を記念して勧請した千手観音像が祀られている。

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千手観音像

 この千手観音像も東向きに安置されている。

 補陀山とは、日本人入唐僧の慧鍔大師が、中国の五台山から観音像を勧請しての帰路に、船が難破してたどり着いた島で、中国四大仏教聖地の一つとして信仰を集め、観音信仰の中心的存在となっている。

 本堂の南側にある地蔵堂は、昔の十王堂を平成元年に再建したものである。

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地蔵堂

 仏式で葬儀を行うと、その後四十九日まで七日毎に仏前でお経を上げるのは、皆さんよくご存じである。四十九日の後も、百ヶ日、一周忌、三回忌と仏事が続く。

 忌日から三回忌まで、十回の仏事があるが、これは死者がそのたびに十王と呼ばれる地蔵菩薩の化身の王の裁きを受け、自分の行くべきところに導かれるためにある。

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地蔵堂説明板

 私の父の四十九日が明日あるが、明日父は太山王に会って裁きを受けるわけだ。仏事に参加する遺族は、父がよい裁きを受けられるように、祈るしかない。

 地蔵堂の隣にある鐘楼は、嘉永三年(1850年)に再建されたものである。その様式により、桃山時代末期から江戸時代初期にかけての創建で、その形態をよく残していることが分るらしい。

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鐘楼

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 屋根に軒唐破風を付けた本瓦葺の屋根は、豪華な意匠である。

 屋根と軸部、袴腰の均整の取れた姿は美しい。

 鐘楼にかかる梵鐘は、「上寺の晩鐘」と呼ばれ親しまれている。青銅鋳造製である。

 

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梵鐘

 銘文によれば、元亀二年(1571年)に、明人が豊後国大分郡府中の惣道場に寄進したものであるらしい。惣道場は、近年の研究で、一向宗門徒が集まった施設であったことが分かって来た。

 豊後国にあったこの梵鐘が、餘慶寺にかけられるようになった経緯はよく分かっていないが、伝承では、秀吉の九州征伐に従った宇喜多秀家が戦利品として持ち帰り、餘慶寺に寄進したとされている。

 梵鐘は、岡山県指定重要文化財である。

 餘慶寺は、かつて七院十三坊と称された塔頭があったが、現在も6つの塔頭が残っている。これだけの塔頭が現存するのは、中国地方の寺院の中でも有数であるそうだ。

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塔頭明王院

 今回紹介した餘慶寺は、密教寺院だが、最近密教寺院の荘厳さに魅かれるようになって来た。日本中の密教寺院を訪れてみたいものだ。