日生町 後編

 日生町の沖合には、鹿久居島、頭島、大多府島、曽島、鴻島といった島が浮かぶ。

 今では、鹿久居島、頭島には、橋が架かり、陸伝いで渡ることが出来る。

 鹿久居島は、岡山県内最大の島である。島の南側にある千軒湾沿いにある千軒遺跡は、縄文時代から中世まで続いた集落の遺跡である。

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千軒湾

 しかし、今回は遺跡の見学を見送った。千軒遺跡のある一帯は、「古代体験の郷まほろば」という、古代体験が出来るテーマパークになっていて、予約をしていなければ入れないからである。途中ゲートがあって、入れなくなった。仮に無理を言って入ったとしても、発掘の終わった遺跡は跡形もないだろうから、無駄足に終わると予想出来たので、入らなかった。

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古代体験の郷まほろばのゲート

 鹿久居島からは、次なる目的地の大多府島が見えた。

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大多府島

 一番奥にうっすら青く見えるのは小豆島である。その手前の小島が、大多府島である。大多府島へは、頭島から船で渡ることになる。

 頭島は、漁業が盛んな島で、民宿などもある。そこから運賃150円で大多府島に渡ることが出来る。

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大多府島へ渡るフェリー

 しかし、運行本数が非常に少ないフェリーであるので、フェリー埠頭で長時間待ち続けることになった。

 待ち続ける間、私が史跡巡りの時に持ち歩いている「鷗外選集」を読んで時間を潰した。「鷗外選集」は、岩波書店が昭和53年に出版した、新書サイズの鷗外作品の選集である。全21巻である。携帯しやすいサイズでありながら、読めば深く含蓄ある言葉を味わうことが出来る。鷗外の1行の文章を読むだけで、ため息をついて天を仰ぎ、数千年の言葉の歴史を旅することができる。鷗外の作品は、私にとってテスタメント(聖書)のようなものである。

 私が読んでいるのは第1巻で、フェリーを待つ間「うたかたの記」を読み終え、「文づかい」を読み始めた。

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旅のお供に「鷗外選集」

 2022年は、鷗外没後100年になるので、その時に鷗外の新しいアンソロジーが出ないか、今からわくわくしている。

 さて、フェリーから窓の外を見ると、大多府島が近づいてきた。

 大多府島の北側には、帆船の時代には風待ちに最適だったであろう港がある。その港を護るように延びているのが、岡山藩随一の土木建築家、津田永忠が元禄十一年(1698年)に築いた元禄防波堤である。

 築造されてから320年以上経ったが、今でも現役の防波堤として使われている。国登録有形文化財となっている。

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元禄防波堤

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 元禄防波堤は、津田永忠が、閑谷学校の石塀を作った技術を用いて築いたと言われている。そう言えば、蒲鉾型の形が閑谷学校の石塀に似ていると言えば似ている。

 この防波堤の何が私の心を躍らせたかというと、それは史跡でありながら、現役の施設として今も十分その任を果たしているからである。海水と潮風に日々煽られながら、防波堤は厳として存在し、波から船乗り場や集落を守り続けている。

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大多府島案内図

 元禄十年(1697年)9月、薩摩藩主島津公が参勤交代のため航海中、瀬戸内海で暴風に遭い、大多府島に避難し、無事を保った。

 島津公は、江戸城岡山藩主池田綱政に、「この島を譲って欲しい」と言った。綱政は、領内にこのような良港があることを初めて知り、津田永忠に命じて築港をさせた。開港と同時に在番所を設け、幕府の用船、諸侯の船舶に給水したり海難救助に当たらせた。また島に燈籠堂を築き、航海する船の目印とした。

 岡山藩では、無人島だった大多府島に領民を移住させ、元治元年(1864年)には、人口444人となった。今では200名弱の島民が居住する。

 島に上陸してから、元禄防波堤を舐めるように見て歩いた。

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 人によっては、こんな石垣の何がそんなにいいのだと疑問に思われるかも知れない。なんにしろ、320年間働き続け、今も働いている史跡というのが格好いい。これからも頑張って欲しい。

 島内には、津田永忠が築いたもう一つの史跡がある。それは、かつて島内唯一の水源であった大井戸である。

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大井戸

 小さな離島には、川もなければ池もない。住めばたちまち水に困ることになる。元禄十一年の港の築造と同時に大井戸も掘られたと言われている。

 井戸は、戦後水道が島に通るまで、250年に渡って島民の生活や農業用水の水源として使われた。一度も涸れたことがないという。覗くと、今も漫々と水を湛えていた。

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 また、島の北東部の高台に登ると、復元された燈籠堂が建っている。

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大多府燈籠堂

 大多府島の燈籠堂は、正徳四年(1714年)に建立され、明治初年まで150年近くに渡り、付近を航海する船の目印の役割を果たした。今建つ燈籠堂は、昭和61年に再建されたものである。

 階段のついた台石は、建設当時のものだそうだ。

 午後5時12分のフェリー最終便まで、島内を歩いた。夕涼みに外に出た年配の島民同士が「暑いねえ」などと声をかけあっていた。この島に一緒に住んで、島の時間を共有しているだけで、強い絆が生まれるのだと思う。

 フェリーを待ちながら、津田永忠の建築工事が長年に渡り島を守り続けたことを思った。弘法大師空海が造った讃岐の満濃池もそうだが、真に偉大な土木工事とは、長い年月に渡って人々の生活を守り続ける設備を作ることだろう。