閑谷学校の西側には、かつて学房と呼ばれる生徒の寄宿舎や食堂などがあった。
茅葺の簡素な建物だったが、弘化四年(1847年)の火災により焼失した。
その後学房は再建されたが、明治38年(1905年)にこの地に建てられたのが、私立中学閑谷黌である。
私立中学閑谷黌の本館として建てられた建物が、今は閑谷学校資料館として公開されている。
私立中学閑谷黌は、閑谷学校の伝統を受け継いだ学校だが、大正10年(1921年)に公立の岡山県閑谷中学校(旧制中学)となる。戦後校舎は、岡山県立閑谷高等学校の校舎となる。その後岡山県立和気高等学校閑谷校舎の校舎として使用される。
昭和39年に、和気高等学校閑谷校舎は閉鎖となり、和気高等学校本荘校舎と合併することとなる。昭和40年から和気高等学校は、和気閑谷高等学校と改称し、現在に至っている。
和気閑谷高等学校の教職員と生徒は、今でも閑谷学校の聖廟の儀式などに携わっており、閑谷学校の伝統行事を現在に伝えている。
昭和39年に学校校舎としての使命を終えた本館は、その後岡山県青少年教育センター閑谷学校として使われ、平成7年から閑谷学校資料館として公開されている。国登録有形文化財である。
資料館の内部は、明治の薫りを残す学校校舎そのままだが、私が小学1,2年生の時に学んだ母校の木造校舎のことを思い出した。母校の名前も、あの木造校舎も、今はもうない。
資料館内部には、閑谷学校から発掘された瓦や、学校の歴史に関する資料、藩主池田家に関する資料、閑谷学校に来学した学者たちの資料が展示されていた。
閑谷学校を開校させた池田光政は、8歳の時に家督を継いだが、幼いころからいかにして領地を治めるか悩んで眠れなかったという。
ある時、儒(儒学者)となって家臣や領民を教え導くことが大事であると気づき、それからは安眠することが出来たという。
光政は、参勤交代の時も儒学の書物を手放さず、習得に努めた。そして、家臣の子弟にも儒学を学ばせるために藩校を建て、庶民のためには手習所を建てた。手習所の上級学校として閑谷学校を建設した。
館内には、光政の書の複製が展示されていたが、几帳面で生真面目な性格を窺わせるような書である。
聖廟に至る石段の両側には、楷の木(孔子木)が立つ。大正4年に中国山東省曲阜の孔子廟から持ち帰って植えた種子から成長した巨木である。
私が儒教の聖廟を目にしたのは今回が初めてである。中国の聖廟は見たことはないが、この聖廟は、日本式に改良されているのではないか。
さしずめ中庭は神社の拝殿にあたり、大成殿は神社の本殿だろう。中庭と大成殿の間には、東階、西階という二棟の廊下がある。
毎年10月には、孔子にお供物を捧げる儀式である釈菜(せきさい)が行われる。資料館には、釈菜で捧げられるお供物の模型が展示してあった。
釈菜は、貞享三年(1686年)から閑谷学校が閉鎖される明治3年(1870年)まで行われた。
閑谷学校閉校後、祭儀はしばらく途絶えていたが、大正四年(1915年)に復活し、私立中学閑谷黌により執り行われた。
今でも、毎年10月に岡山県立和気閑谷高等学校の教職員と生徒により、釈菜の儀式が行われている。
私も「論語」を読んだことがあるが、国や民族を超えて孔子が尊敬されるのは、人類普遍の真理がそこに書かれているからだろう。理屈っぽい「孟子」よりも、「論語」に書いていることの方が、素朴で親しみ易い。傲り高ぶらない、人が嫌がることはしない、といったモラルが書いてある。宗教的な教義ではなく、人間関係を円滑にするにはどうすればいいかを孔子なりに考えて導き出した答えが書いてあるように思う。国家や社会内部の人間関係に焦点を絞ったリアルな教えである。
毎年釈菜の儀式でお供物を受ける孔子は、実は「俺はそんなに偉くないよ」とはにかんでいるような気がする。