岡山藩池田家初代藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文十年(1670年)に設立したのが閑谷学校である。世界初の庶民のための公立学校である。
閑谷学校が現在の姿になったのは、二代目池田綱政の時代の元禄十四年(1701年)である。閑谷学校は、完成当時の姿をほぼ完全に残すものとして、国指定特別史跡となっている。
また、講堂は国宝に指定されている。当ブログが扱う国宝としては、姫路城以来二度目である。
閑谷学校の特色は、備前焼の瓦を載せた建物と、それを取り囲む蒲鉾型の石塀である。この2つが、独特の景観を形作っている。
光政は、儒教の仁政を領内に敷くことを理想とし、藩士のみならず領民にも儒教の教えを教育しようとした。一時は、領内123ヵ所に、庶民教育のための手習所を開設したが、財政難のため、全て廃止し、閑谷学校に統合した。
光政は、領内を巡視し、この地を見て、山水閑静にして読書講学の地に相応しい場所であるとし、寛文十年に仮学校を開設した。そして津田永忠に後世に残る学校の建設を命じた。則ち今残る閑谷学校である。
閑谷学校の建物は、基本的にほとんど装飾がない。備前焼の瓦の渋い赤茶色と、黒くくすんだ木材と、鮮やかな緑の芝生が、清浄で思わず背筋が伸びる空間を現出している。
石塀は、六角形の石が組み合わさって、学校全体を囲うように延びている。
閑谷学校の講堂は、学校建築としては全国で唯一国宝に指定されている。
入母屋造りの重厚な建物である。
禅寺のように華頭窓が並ぶ。木材の色が、飴色でいい味を出している。
講堂内は、欅の丸柱が立ち並び、床は拭き漆を塗られて鏡のように磨き込まれている。まさに学問のための聖域のようである。
講堂では、儒教の基本書物である四書(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)の講義が行われた。
実は私も中学2年生の時の校外学習で閑谷学校に行き、この講堂で「論語」を読んだ。当時は、何の有難さも感じなかったが、今から思えば、光政公の学問への情熱の余燼を身に浴びていたことになる。
私が気づいた小さな発見だが、閑谷学校講堂の釘隠しと姫路城大天守の釘隠しは、全く同じ六葉の釘隠しであった。
姫路城天守を築いた池田輝政と、閑谷学校を築いたその孫の池田光政の血縁が、ここにあるように感じた。
講堂の西側には、公門がある。講堂に出入りするための門である。
講堂にくっつくように建っている小斎という建物は、藩主が臨学した際のお成りの間である。
簡素な数寄屋造りで、現存する建造物の中で最も古い姿を残している。
小斎の屋根は杮葺きである。涼しそうな建物だ。
習芸斎は、閑谷学校の講義室の一つで、ここでは五経(「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」)と呼ばれる、儒教の根本経典の講義が行われた。
習芸斎の講義には、学生のみならず、近隣の農民も参加したそうだ。
池田綱政は、延宝八年(1680年)に閑谷周辺の279石を永代学田とし、万一池田家が国替えになったとしても、いささかも学校経営に影響がないようにした。幸い池田家は幕末まで岡山藩主を務める。
閑谷学校から聞こえる「論語」朗誦の声は、幕末まで途絶えることはなかった。
閑谷学校の名声は天下に響いており、高山彦九郎、菅茶山、頼山陽、大塩平八郎、横井小楠といった錚錚たる学者達が来学した。
飲室は、生徒の休憩用に作られた部屋である。室内中央に炉が設けられているが、防火のため、炭火以外の使用が禁止されていたそうだ。
飲室の西側には、文庫がある。儒学の書物を保存した倉だろう。防火のためか、窓に銅板が張られている。
閑谷学校の西側の、今資料館が建つ場所には、江戸時代には学房という生徒の寮が建っていた。学房は火災で全焼したが、学房と学校の間には、火除山という防火のための石垣で覆われた丘がある。
この火除山のおかげで、閑谷学校の類焼が避けられたのだ。
閑谷学校を建設した津田永忠の用意周到さが、学校を現代まで伝えたと言えるだろう。
岡山藩が残した遺産は、墓所といい、閑谷学校といい、本家中国以上に儒教の文化の精髄を感じさせる。儒教が神道と仏教とに並ぶ日本文化第三の柱であると感じる。