兵庫県たつの市新宮町から佐用郡佐用町に抜ける国道179号線を進むと、播磨科学公園都市の案内標識が出てくる。播磨科学公園都市は、兵庫県の相生市、たつの市新宮町、赤穂郡上郡町、佐用郡佐用町にまたがる山地を切り開いて開発された学術研究都市である。
ここにある著名な施設として、理化学研究所が運用する、大型放射光施設Spring-8がある。
電子を光の速さまで加速させ、磁石を使って進路を曲げると、放射光を発するそうだが、その放射光を観察して、原子・分子レベルの物質の組成を調べるための施設らしい。和歌山毒物カレー事件の毒物の鑑定にも使用された。
ここは当たり前ながら史跡ではないが、「兵庫県の歴史散歩」の中にしっかり記載してあるので、立ち寄ったまでである。
この播磨科学公園都市の中央を貫通する道路が、播磨テクノラインである。高原上の科学公園都市から相生市矢野町に下りていくにはこの道を使う。道幅の広い、中高速コーナーの続くワインディングロードだが、車が閊えて楽しめなかった。
さて、相生市矢野町の農村地帯に下りて、瓜生という集落を抜けると、羅漢の里公園がある。
ここには、瓜生羅漢の石仏がある。羅漢の石仏の作者も制作年代も未詳である。
羅漢の石仏は、洞窟のような場所に全部で16体据えられている。
これらの石仏は、表情豊かでユーモラスである。石仏たちは、この場所で永久に釈迦の法話を楽しんでいることだろう。
この羅漢の里公園には、感状山への登り口がある。感状山の上には、国指定史跡である感状山城跡がある。
私は、11歳だった昭和60年8月に、伯父に連れられてこの山を登った。あれから実に34年ぶりの登山である。
感状山城は、鎌倉時代に瓜生左衛門尉が築いた。それを本格的な山城にしたのが、赤松円心の三男赤松則祐である。
足利尊氏は、建武の新政府に反旗を翻したが破れ、九州に落ち延びた。赤松円心、則祐父子は、足利尊氏に呼応して、白旗山城と感状山城に立て籠もり、足利尊氏追討のために西下した新田義貞軍を50日以上足止めした。建武三年(1336年)の白旗山城の合戦である。
この間、足利尊氏軍は勢力を回復することができた。復活した足利軍は東上し、感状山城を包囲する新田軍の囲いを破った。
尊氏が、赤松則祐の功績を称えて感状を与えたため、感状山城と呼ばれるようになったという。
私の親戚が調べたところでは、私の祖先は新田義貞に仕えていたそうである。湊川の合戦で足利尊氏軍に敗れて散り散りになった新田軍の兵士の中に私の祖先がいたそうだ。となると、私の祖先は、ひょっとしたら、680年前にこの城を包囲した新田軍の中にいたかも知れない。
さて、下山して、播磨テクノラインを南下すると、真広交差点に出る。ここを左折し、県道姫路上郡線を東進する。姫路上郡線は、古代律令制下の山陽道と重なる場所を通っている。
奈良時代の日本の都は平城京である。当時の日本第二の都市は、九州の太宰府である。平城京と太宰府を結ぶ山陽道は、奈良時代の日本の最重要幹線道路であった。
当時の官道には、16㎞ごとに、駅家(うまや)と呼ばれる、往来する役人が馬を乗り継いだり、休憩するための施設が置かれていた。
山陽道は、重要道路なので、8㎞ごとに駅家が置かれていた。山陽道の駅家の中には、外国の使節も利用する、迎賓館の役目を果たす豪華な駅家もあった。
兵庫県たつの市揖西町小犬丸にある布勢駅家跡もそんな駅家のあった場所である。
布勢駅家も、当時としては豪華な白壁瓦葺きの建物であった。
たつの市立埋蔵文化財センターに、布勢駅家跡から発掘された遺物が展示してある。
特に「驛」と書かれた土器が発掘されたおかげで、ここが駅家であると特定できた。
全国的に駅家と特定できた遺跡は数少ない。布勢駅家跡は、貴重な遺跡である。
それにしても、古代で最重要だった道も、今ではただの田舎道である。今日栄えているものが、明日どうなるか分からない、人の世の成り行きが面白い。