坂越

 坂越(さこし)は、兵庫県赤穂市東部に位置する港町である。古くから良港として知られ、町の中心を通る大道沿いには、白壁と焼板の町家が並ぶ。

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坂越の町並み

 海に面する町中を歩くと、大避(おおさけ)神社に辿り着く。

 大避神社は、大避大神を祭神とする。大避大神は、聖徳太子の側近であった秦河勝(はたのかわかつ)のことである。

 秦氏は、6世紀に百済を経由して日本に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とし、土木、養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた古代氏族である。弓月君の祖先は、秦の始皇帝とされる。

 秦河勝は、聖徳太子に仕え、丁未の乱蘇我物部合戦)では、太子を守りながら、物部守屋の首を刎ねたという。

 また太子から、太秦の地を与えられ、弥勒菩薩半跏思惟像で有名な広隆寺を創建した。

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大避神社拝殿

 太子の死後、秦河勝蘇我入鹿から圧迫を受け、皇極天皇三年(644年)に、船で中央を脱出し、坂越に漂着したと伝えられる。

 秦河勝は、千種川流域の開発に努め、大化三年(647年)に坂越の地で亡くなったという。

 坂越湾に浮かぶ生島(いきしま)には、秦河勝墓所とされる塚がある。生島は、大避神社の神域で、禁足地とされ、国の天然記念物である生島樹林が残る。

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大避神社境内から生島を望む。

 生島には、大避神社の御旅所があり、毎年10月に行われる船渡御祭では、神輿を載せた和船など12艘の舟が、坂越浦から生島まで渡御する。

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船渡御祭で使用された和船

 大避神社境内に保管されている和船は、船渡御祭で雅楽の奏者が乗って雅楽を演奏しながら渡るための舟である。

 実はこの秦河勝雅楽と申楽(猿楽)の祖とされる、芸能の神様である。

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楽家岡家が奉納した絵馬

 雅楽の家の東儀家や岡家が、秦河勝の子孫を称しており、神社には両家が奉納した絵馬がある。

 世阿弥の書いた「風姿花伝」の序文には、

推古天皇の御宇に、聖徳太子秦河勝に仰せて、(中略)六十六番の遊宴(66曲の物まね芸。今に伝わらないので未詳)をなして、申楽と号せしより以来(このかた)、(中略)その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日枝の神職たり。 

とある。

 秦河勝の子孫が、大和の春日大社と近江の日枝大社の神職となって、神前にて申楽(猿楽)を演じ続けた。世阿弥の時代には、大和申楽四座と近江申楽三座が申楽を演じていた。申楽は明治時代になって能楽という名称になり、日本が世界に誇る洗練された舞台芸術となった。

 このように、秦河勝は、雅楽と申楽という日本の芸能の元祖とされている。

 司馬遼太郎の「兜率天の巡礼」という初期小説に、大避神社のことが出てくる。秦氏ネストリウス派キリスト教景教)を奉じており、大避神社が実はキリスト教の神殿であったとする異説を基に書かれた伝奇ロマン小説である。漢の時代に、ローマ帝国が大秦と呼ばれたことからの連想だろう。

 私はその説に与しないが、大避神社には、どこか異国の匂いがする。雅楽は元々中国、朝鮮、ベトナム、インドから伝わった音楽が日本古来の音楽や舞と融合して出来たものである。

 秦氏は、異国の習俗を巧みに日本に取り入れた集団だったのだろう。

 さて、大避神社の裏山に、船岡園という大正時代にできた公園がある。

 その公園の一角に、南北朝時代南朝方の武将・児島高徳の墓と伝えられる五輪塔がある。児島高徳備前国の出身とされる。

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児島高徳の墓とされる五輪塔

 児島高徳は、「太平記」に出てくる武将だが、「太平記」以外に児島高徳の実在を示す史料が存在しないので、実在を疑われている人物である。「太平記」は、虚構も綯交ぜにした軍記物語であるため、史料にはなり得ない。

 それでも、「太平記」の中で、いかなる時も後醍醐天皇に忠節を尽くす児島高徳は、戦前には忠臣として称賛された。船岡園も、児島高徳の550回忌を記念して大正3年に造られた公園である。 

 五輪塔の背後には、東郷平八郎児島高徳を賞賛する文を彫った石碑が建っている。

 児島高徳が実在したのか、この五輪塔児島高徳の墓なのかは分からない。しかし、坂越湾を眺めることができるこの場所は、児島高徳が眠る場所にふさわしいと思えた。