たつの市御津町室津。ここは、今となっては、鄙びた漁村に過ぎないが、かつては大変繁盛した港町だった。
北西に向けて湾口が開いた形の室津港は、中に入れば、外の海が荒れていても、室の中にいるかのように安全であった。
そのため、古代より、風待ちの港として発展した。船乗りの宿泊する港となれば、遊女街ができる。
室(室津)は西国第一の湊、遊女も昔にまさりて、風儀もさのみ大坂にかはらずといふ。
と書いてある。元禄のころには、「西国第一の湊」と見做されていたのだ。
徳川の世になると、江戸という巨大都市、一大消費地が関東平野に出現した。江戸には、全国の大名が屋敷を作り、大名と家臣団及びその家族が在住していた。彼らが食べるためには、領国から大量の食糧を江戸に送る必要がある。当時大量の米を江戸に送るには、海路を使った方が圧倒的に安く輸送できた。こうして、江戸時代の輸送の主力として活躍したのが廻船である。室津は、廻船が寄港する主要な港であり、沢山の廻船問屋が出来た。また、室津は、船を使って参勤交代する大名の寄留港でもあった。
室津の繁栄を、今の時代に例えれば、新幹線の駅のある主要都市、といったところか。
明治時代になって交通の主力が鉄道になると、室津は段々寂れていく。それでも、当時をしのぶ史跡は残っている。
室津に行くには、国道250号線を走らなければならない。御津町の中心から室津方面に進むと、道は海沿いの曲がりくねった道になる。地元で「七曲り」と呼ばれるワインディングロードである。
瀬戸内海に浮かぶ島々を眺めながら走ることが出来る爽快な道だ。私はここで、スイスポを買って初めてエンジンをレッドゾーン直前まで回してみた。レッドゾーンは6200回転から始まるが、Mモードにしていても、5800回転まで行ったら、自動的にシフトアップする。これがミッションだったら、運転が下手な私であれば、非常にぎくしゃくしたであろう。パドルシフトを使えば、ハンドル操作とタイヤのグリップに集中して走ることができる。しかし、楽しむ間もなくあっという間に室津に着いてしまった。
さて、室津では、かつて廻船問屋として繁盛した嶋屋の遺構を室津海駅館として公開している。
江戸時代の室津は、参勤交代の大名たちが宿泊した他、当時日本と唯一正式な外交関係を有していた朝鮮王国から派遣された朝鮮通信使が必ず立ち寄る港だった。また、日本との長崎での交易を認められたオランダ商館長は、毎年徳川将軍に拝礼をするため江戸に参ったが、その時にも室津に立ち寄った。
室津海駅館には、これらに関する史料が展示してある。
参勤交代の大名が宿泊する建物を「本陣」と言うが、通常本陣は、宿場町に一つしかない。しかし、主要港であった室津には、同時に複数の大名が立ち寄るので、六つの本陣があった。本陣の一つ肥後屋の模型が展示していた。また、大名が本陣で食事をした時の御膳が展示してあった。
これらの本陣の建物は、昭和40年ころまでは、朽ち果てながらも室津に残っていたが、その後解体されて、今では一つも残っていない。大名の御膳も、現代人の食事と比べれば、さほど豪華とも言えない。昔の日本人は質素だった。
又、朝鮮通信使一行が入港した時の室津の様子を描いた屏風絵が展示されていた。現実にこの情景を見たら、さぞかし壮観だったことだろう。儒教の国で、礼儀作法に非常に細かい朝鮮の通信使をもてなすのは、とても大変だったそうである。
この海駅館の2階の天井は、船底のように傾斜している。なかなか面白い形だ。屋形船之間と呼ばれる。
2階の一番奥に、この屋敷で最も格式の高い一之間がある。2階からは、室津漁港を見下ろすことが出来る。200年ほど前には、今漁船が繋がれているこの港を、大名や朝鮮通信使の舟が埋め尽くしていたのだ。
海駅館を出て海に向かって歩くと、臨済宗相国寺派見性寺がある。
見性寺は、弘安六年(1283年)に玄海和尚が建てたとされる。足利尊氏と赤松円心が、この寺の一室で、鎌倉幕府討滅を議したと伝えられる。国重文の毘沙門天立像は、期間限定でしか公開していないので、残念ながら拝観できなかった。
見性寺のすぐ近くに、室津民俗館がある。ここは、江戸時代の廻船問屋「魚屋」の遺構である。
ここは、海駅館と異なって、地元室津の人たちの生活に関する資料が展示してある。
室津では、「八朔のひな祭り」と言って、3月3日ではなく、旧暦8月1日にひな祭りを行う。
永禄九年(1566年)1月、室津の室山城主・浦上政宗が、次男の清宗と黒田職隆(黒田官兵衛の父)の娘・志織姫との婚礼の儀を行っていたところ、龍野赤松氏の赤松政秀に急襲され、姫もろとも殺された。地元民がこれを悲しみ、3月のひな祭りを半年延期したことに因むらしい。
いかに戦国乱世とは言え、婚礼の酒宴で酔って動けない人たちを襲うのは、卑劣すぎないかとも思うが、甘すぎるだろうか。いずれにしろ、悲劇の歴史だ。
悲しみという感情から始まった風習が、現在まで続いているというのを知ると、何か粛然とした気分になる。