阪神・淡路大震災では、淡路島北西部において、野島断層が長さ約10キロメートルに渡ってずれた。
最大で約1.2メートルの上下の段差と約2メートルの横ずれが生じた。
野島断層の地面のずれが最も明瞭に現れたのは、淡路市(旧北淡町)小倉地区であった。
小倉地区に現れた断層のずれ約185メートルが国の天然記念物に指定された。野島断層保存館は、断層を風化から防ぐために断層の上に建てられた建物である。
上の写真は、現在野島断層保存館が建っている場所を震災直後に空撮したものである。断層のずれが、写真の上から下に走り、民家の敷地内を通っているのが見て取れる。
写真の上が北である。西側(左側)が海側で、東側(右側)が山側になる。
震災では、淡路市小倉地区の野島断層の山側地面が、約50センチメートル持ち上がり、更に南に最大約1.5メートルずれた。
写真の民家は、メモリアルハウスとして北淡震災記念公園内にそのまま残されている。この民家の北側に、現在野島断層保存館が建っている。
野島断層保存館の見学順路は、断層のずれを北から南にかけて見学するようになっている。
最初の見学箇所は、破壊された道路である。アスファルト舗装の三叉路の真下を断層が通っていたので、道路は破壊された。
道路の脇には側溝があるが、ずれて壊れてしまっている。この側溝が元々はつながっていたのだ。地面全体が横ずれしたのが実感できる。
道路の南側で断層は主断層と副断層の二つに分かれている。
断層は地表で二つに分かれているが、地下の深い層では一つであったようだ。
途中、生け垣に囲まれた小さな祠があったが、その場所で断層はまた一つになった。
生け垣の木々や、生け垣に沿った排水溝と畝までがずれてしまった。
祠のあった場所で一つになった断層は、地割れや陥没を起こしながら続き、途中畦道もずらした。
野島断層保存館の外までも断層は続き、冒頭で紹介した民家まで続いている。
野島断層保存館の最南端では、地面を掘り下げたトレンチ展示が行われていて、地下に下りて断層の断面を見ることが出来る。
写真のとおり、野島断層の海側(左側)と山側(右側)では、地質が全く違うことが分かる。山側は、粘土層である。粘土層は柔らかいので、野島断層保存館の外の断層のずれは、震災後風化して分からなくなってしまった。
この館だけが、阪神・淡路大震災における野島断層のずれを明瞭に保存している。
さて、野島断層保存館から出ると、目の前に鉄筋コンクリート製の壁が聳えている。
昭和2年(1927年)ころに、神戸市長田区若松市場の延焼防止壁として建設されたもので、通称「神戸の壁」と呼ばれるものである。
神戸の壁は、神戸大空襲、阪神・淡路大震災の火災と揺れに耐えて残った。
建設当初は、壁に開いた通路に鉄製の扉が備わっていたらしい。
神戸大空襲で若松市場は全焼した。壁の両側に焼夷弾が落ちて、両方焼けてしまったのだろう。
戦後、焼け残った神戸の壁は、取り壊されずに復興のシンボルとして残された。
戦争が終わって、壁の両側に再び民家が建ったが、阪神・淡路大震災で発生した火災でまたもや焼けてしまった。
震災後、神戸市長田区の延焼地帯は再開発されることになった。震災の生き証人である神戸の壁の保存運動が起こり、平成11年に壁は淡路の旧津名町に移され、保存されることになった。
壁はその後、現在地に移設され、野島断層と共に震災を語り継ぐものとして展示されている。
ずれた断層を見ると、自然災害の前では人間の築いた文明など脆いものであることが実感できる。
しかし逆に考えると、我々を苦しめた断層のずれを、敢えて保存して後世の人々への戒めにしようとする人間の逞しさも感じる。
苦しさに押しつぶされそうになる時もあるが、人類全体の視点で見ると、何があっても人間は逞しく生きていく他ないのだろう。