御井の清水

 舟木石上神社から東に走り、大阪湾側に出る。淡路島北部は、東西の幅が狭く、車であれば、大阪湾側と瀬戸内海側を短時間で行き来できる。

 神戸淡路鳴門自動車道の東浦ICの出入口付近は、佃遺跡という、縄文時代後期の遺跡としては西日本最大級の遺跡が発掘された場所である。

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佃遺跡のあった辺り

 今は畑が広がるばかりで、遺跡が発掘されたことを示すものは何もない。

 縄文時代後期は、東日本の方が人口密度が高く、西日本には、人はまばらにしか住んでいなかった。当時この地に大きな集落があったことは、何を意味するのだろうか。

 さて、ここから国道28号線を南下する。淡路市釜口の釜口バス停の辺りは、縄文時代早期の遺跡、船頭ヶ内遺跡が発掘されたあたりとなる。

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船頭ヶ内遺跡のあった辺り

 ここからは縄文時代早期の押型文土器が発掘されたそうだ。縄文時代早期は、約1万年前である。気の遠くなるような昔に、人々はここで命をつないでいたわけだ。恐らく漁労をしていたのだろう。

 さて、国道28号線を更に南下する。

 淡路市佐野小井にある御井(おい)の清水を訪れた。

 佐野小井のバス停近くに産直淡路という売店がある。その脇から山に登っていく。この道は狭いので、車では入らない方がいい。私は徒歩で登ったが、かなりの急坂で、ゆっくり歩いても息が上がった。

 麓から約15分歩いて、御井の清水に辿り着いた。

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御井の清水

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 この史跡については、「古事記」の仁徳天皇の条に、次のような記載がある。

 兔寸(とのき)河の西(今の大阪府高石市富木)に、朝日が当たれば影が淡路島に及び、夕日が当たれば影が高安山生駒山系の山)に及ぶ非常に高い木があった。

 その木を伐って船を造ると、とても速く進む船が出来た。その船を枯野(からの)と名付け、朝夕淡路島に遣わして寒泉(しみず)を汲んで、大御水(おおみもい)として天皇に献上した。

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御井の清水

 その寒泉の水が、この御井の清水であるとされている。

 ところが「日本書紀」では、枯野が建造されたのは、仁徳天皇の父の応神天皇の時代のこととされており、天皇伊豆国の人々に命じて造らせたとある。「日本書紀」には、「古事記」にある巨木の話や淡路の清水の話は出て来ない。

 「古事記」「日本書紀」は奈良時代初期に成立した文書で、応神・仁徳朝は、考古学上は西暦400年ころのこととされている。その差は約300年である。

 「古事記」「日本書紀」の伝承に多少の違いがあるが、それは逆に言えば、根拠となった伝承が何通りかあったということである。もし記紀の内容の全てが、奈良時代の朝廷が創作した作り話だったとしたら、話は全て合わせてあるはずである。

 昭和になって発掘された埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣には文字が刻まれていた。5世紀後半の鉄剣とされている。この発掘で、5世紀後半の日本で文字が使われていたことが確定した。

 5世紀後半の人々からすれば、仁徳天皇の時代は祖父母世代の時代である。応神・仁徳朝に文字がなかったとしても、5世紀後半の人は、親や祖父母から、口伝で祖父母やその前の時代のことを聞いて、文字に残したことだろう。

 それらの文字資料を基にして、奈良時代初期に「古事記」「日本書紀」が編纂されたとしたら、少なくとも応神・仁徳朝以降の記紀の記事は、全くの架空の話ではなく、それなりに言い伝えられてきた話であると考えられる。

 そして先ほども言ったように、記紀の基になった文字資料は、今は現存していないが、当時は数種類残っていたものと思われる。

 「日本書紀」は、「ある書に曰く」と書いて、異説を何通りも紹介している。「古事記」の太安万侶の序文を読むと、天武天皇から、古来からの伝承(帝紀旧辞)には誤りが多くあるから、それを正すように命じられたと書いてある。

 戦後の歴史学者には、戦前の皇国史観の反動で、記紀に書かれていることは全て朝廷による作り話と主張する者がいたが、これもある思想に立脚したおよそ学問的でない見方である。

 ところで、仁徳天皇が、このような清水をわざわざ船で運ばせたのは、大げさではないかとも思ったが、仁徳天皇が皇居とした高津宮が、当時は海に面していたことを思い出した。

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仁徳天皇の時代の大阪(国土交通省のホームページより)

 仁徳天皇の時代の大阪は、海が上町台地(今の大阪城の辺り)まで迫っていて、上町台地の東側には、草香江という淡水湖があった。

 記紀によれば、仁徳天皇は洪水対策のため、上町台地を掘削して堀江という運河を築かせ、草香江の水を大阪湾に逃がしたという。

 高津宮は、堀江のすぐ南側にあったという。つまり、当時の皇居は大阪湾に面していて、枯野号を漕ぎ出せば、対岸の淡路にはすぐに行くことが出来た。

 まさか水だけを運ぶために船を出したわけではあるまい。淡路は天皇に食材を献上する御食つ国(みけつくに)だったので、様々な食材を船で運んだことだろう。もちろん海産物はすぐに腐るので、船で早く運ぶ必要があったに違いない。枯野号は、水の抵抗の少ない滑らかな木材で造られた船だったろう。淡路の海人は、船の漕ぎ手として活躍した。

 その伝承の中で、御井の清水の話がクローズアップされ、「古事記」に書かれたのだと思われる。

 さて、急坂を登って喉が渇いた。あいにくお茶も何も携帯していなかった。御井の清水を覆う建物には、柄杓が掛けてあり、建物に掛けられた網を取って水を汲むことが出来た。

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御井の清水

 喉が渇いていたせいか、冷たい清水はとても美味しかった。かつて仁徳天皇がお飲みになった水だと思いながら、喉を潤した。