今年3月22日以来、約2か月半ぶりに史跡巡りに出掛けた。今日まず訪れたのは、兵庫県多可郡多可町中区の寺院である。
多可町は、平成17年に多可郡の中町、八千代町、加美町が合併して誕生した自治体である。合併後、それぞれの町は区として名称を残すこととなった。中区は、多可町の中心街である。
中区は盆地であるが、古代から、この盆地は地域の中心であったらしい。
スイフトスポーツは、相変わらず快調である。父の形見のドライビンググローブを着けて自宅を出発する。
最初に訪れたのは、中区坂本にある鳳泉寺である。
鳳泉寺は、白鳳時代に法道仙人が開山したと伝えられる。現在は臨済宗の禅寺である。
来歴はよく分らないが、天正年間(1573~1592年)の野間城合戦の際に、焼亡したそうだ。
嘉永年間(1848~1854年)には寺小屋が開かれていたらしい。写真の庫裏が、寺小屋として使われていたことだろう。
鳳泉寺の本堂には、兵庫県指定文化財の、木造聖観音立像が祀られている。
木造聖観音立像は、11世紀初頭、平安時代中期の作とされる。華奢な細造りの仏像らしいが、北播磨の仏像の中では出色の出来栄えであるそうだ。拝観は出来なかった。
次に訪れたのは、中区天田にある量興寺である。
ここは現在は高野山真言宗の寺院となっているが、推古天皇の御願所として建てられた多哥寺が前身である。
昭和55年の発掘調査によって、量興寺一帯から、7世紀の瓦や、青銅製の相輪の破片などが見つかった。
調査の結果、回廊に囲まれ、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式の巨大な寺院がここにあったことが確かめられた。
発掘された遺物は、中区の歴史資料館である那珂ふれあい館に収蔵されている。
ここに朱色に塗られた柱を持つ七堂伽藍があったことを想像してみる。当時の多哥寺は、旧多可郡(現在の多可町、西脇市一帯)の信仰の中心だったことだろう。
現在の量興寺境内には、多哥寺の五重塔の心礎が残されている。
五重塔の心柱を受けた穴は、直径約95センチメートル、深さ約20センチメートルである。なかなかボリュームのある石である。此の上に、如何に高い塔が建っていたか偲ばれる。
多哥寺は次第に衰退していったが、この一帯が皇室御料であったこともあり、第74代鳥羽天皇の御宇に、民部卿九条顕頼が伽藍を建立し、量興寺と名付けた。
その後、皇室が手厚く保護したことにより、量興寺の寺格も著しく上がり、近郷随一となったが、中世に入り、再び荒廃した。
天正六年(1578年)、地頭矢田部長久が量興寺の荒廃を嘆いて本堂を建立し、薬師如来を安置し、良遍上人を招いて開山した。これが今に続く量興寺である。
量興寺の庫裏は、茅と瓦葺の、美麗な建物である。
薬師如来を祀る本堂は、銅板葺きの小ぶりな建物である。
境内は躑躅が花盛りであった。
また、私の好きなイチョウの木があった。緑の葉が青々と茂る夏のイチョウもいいものである。
次なる目的地は、中区門前にある瑞光寺である。ここは臨済宗の禅寺である。
瑞光寺の山門は、無粋にもブルーシートで覆われていた。
瑞光寺は、赤松則祐が、元弘二年(1332年)に母の菩提を弔うため、夢窓国師を招いて開山した寺である。
天正三年(1575年)7月、瑞光寺は、別所長治の攻撃により炎上した。天和三年(1683年)、京都天龍寺から夢窓国師十世の法孫文礼禅師が来て、寺を再建した。享保十七年(1732年)、失火により寺は再び焼けたが、その後再建され、現在に至っている。
庫裏は禅宗様式の簡素で堂々としたものである。
庫裏の裏には、池泉式の庭園がある。近づくと蜥蜴が走り、池に蛙が飛び込んだ。
瑞光寺は、紅葉で著名な寺である。秋に来れば、また趣が異なるだろう。
今回父の不幸があって、地元の真言宗の寺院に大変お世話になった。実際に自分が寺院のお世話になって、いかに寺院が地域の文化にとって大切な役割を果たしているかが実感できた。
寺院は地域の人々の心の拠り所であると同時に、人々を地域の歴史に結び付ける役割を果たしている。