旧足守藩侍屋敷遺構 後編

 玄関から式台の間に上がって、二の間、一の間に至り、そこから眺める庭は、侍屋敷の公的な部分である。

 この屋敷で実際に生活する人々は、玄関の横の土間から出入りした。

土間の出入口

 土間は、武家、商家、農家に変わらず、昔の日本家屋の全てに備えられていた。

 今でいう玄関の三和土のようなものだろう。

土間

 土間に入って上を見ると、茅葺屋根の内側が見える。

茅葺屋根の内側

 土間に入ってすぐ右手に、内玄関の間がある。

内玄関の間

 内玄関の間は、この家に住む家族が出入りした生活空間である。

 内玄関の間の左にあるのが、4畳の合の間である。内玄関の間の奥には、式台の間、二の間、一の間と続いているのが見通せる。

 昔の日本家屋は、このように障子を開けると吹き抜けになる。夏の暑さをやり過ごす工夫であろう。

 土間の奥には台所がある。竈などがある。

土間にある竈

 竈の横には、「蝿入らず」という家具が置かれている。

蝿入らず

 出来上がった料理を、暫くの間入れて置いておくためのものだろう。

 台所の板の間には、流しがある。

台所の流し

 土間から家の裏に出ると、目の前に便所と湯殿がある。

便所と湯殿

 昔は、冬の寒い時も、用を足したり、風呂に入るには、一旦外に出なければならなかった。

 藩の家老という身分の高い人でも、そうしなければならなかったのだ。

 母屋の裏手に出ると、漆喰で壁を塗り固めた土蔵を眺めることが出来る。

土蔵

 母屋を振り返ると、母屋の裏側に居住スペースの部屋が連なっているのが分かる。

母屋の裏側

茶の間

 台所の板間の奥は、茶の間になっている。

 6畳の茶の間と4畳の合の間が、家族が食事をしたり普段過ごした場所だろう。

 二の間の裏側に、家老が普段過ごした居間(奥の間)がある。

奥の間

 奥の間は、床も書院もない、壁と障子に囲まれた7.5畳の和室である。

 壁や障子は真っ白で、何の装飾もない。驚くほど簡素な部屋である。

 日本の武士の生活を見て思うのは、同じ封建領主だったヨーロッパの王侯貴族や騎士の生活と比べて、生活が質素だったということである。

 日本で初めて武家政権を打ち立てた源頼朝が、質素な生活を好んだところから、日本の武家は質素倹約を旨とするようになった。

 秀吉が豪華な生活を好んだのが例外だが、源氏を祖とする徳川幕府も、鎌倉幕府に範を取って、贅沢な生活をしないように武士たちを度々戒めた。

 ヨーロッパの城や宮殿の豪華さと、日本の城や武家屋敷の簡素さを比べて見ると、源頼朝が開いた鎌倉幕府が好んだ質素な生活が、如何に後世の武家文化、ひいては日本文化に大きな影響を与えたかが分かる。