見事な石垣のある本丸を抜けて、城山の更に奥に進んでいく。
南北朝時代に築かれ、天正時代に秀吉軍により落城した八木土城を目指した。
登山道は整備されていないが、まばらな叢林の間を抜けて行く感じで、困難な道程ではない。
割合平坦な道を行くことになる。
八木土城は、連郭式の山城である。小さな曲輪が連続している。
途中、L字状に残った土塁に囲まれた曲輪があった。
二の丸の入口には、土塁があり、その間に道が残っている。かつての虎口(こぐち)の跡であろう。
虎口から二の丸の曲輪に入ると、目の前に小高い丘がある。小規模だが、これがかつての本丸跡だろう。
本丸の上は、然程広くはない。ただの平坦地にしか見えない。今となっては城の面影はない。
本丸跡から二の丸を見下ろすと、ここが人工的に造られた削平地であることが分る。
上の写真を見ると、二の丸の右側が少し盛り上がっているのが分る。これも土塁の跡だろう。
残った土の構造物から、かつての城の姿を想像することが楽しめるのが、土城の良さだ。
さて、城山から下りて、八木城主の居館のあった殿屋敷遺跡を訪れることにした。
殿屋敷遺跡は、城山の東側の、民家も何も建っていない広大な緑地の中にある。
現在は、遺跡の中に、中世八木氏の城主館を再現した建物が建っている。
城主館の四囲は、一辺の長さ約80メートルの堀で囲まれていたようだ。
城主館だけでなく、西堀も復元されていた。
再現された城主館は、意外にこじんまりした建物である。
中世の地方豪族の館は、この程度の規模だったのかと思う。
武家政権の創設者・源頼朝は、質素倹約を旨とし、配下の武士たちにも質実剛健な生活を求めた。
それは鎌倉幕府崩壊後も変わることはなかった。源氏の後裔を名乗った家康も、普段は質素な生活をしていたという。
ヨーロッパの封建君主が豪華な生活をしたのに比べて、日本の封建君主の生活は質素であった。
支配者は豪華な生活をしてはいけないという日本人の観念は、この武家政権の伝統から来ているのではないか。
殿屋敷遺跡の南側からは、南堀に沿って高さ約80センチメートルに積み上げられた石垣が発掘された。
発掘された石垣は、風雨による土砂の流出を防ぐためか、今はブルーシートで覆われている。
もし当時の堀と石垣を見学できるようにしたら、ここは中世の武士の居館がどんなものであったか実感できる、面白い史跡公園になるだろう。
武士は、戦士の集団であって、その本旨は、戦って敵を破ることにある。その目的に向けて、生活の全てが収斂されていた。
戦いがほとんど無くなった江戸時代には、武士の生活の目的が少しぼやけるが、戦さ続きの中世の武士の生活は、全て戦うことを前提に組み立てられていたと思われる。
そのために、戦いの勝利に繋がらない無駄なことは削ぎ落され、合理的な生活が行われていたことだろう。
その是非は別にして、目的のある生活は、人を美しくする効果があると思われる。