山中一揆 後編

 徳右衛門御前から北上すると、禾津(いなつ)の集落がある。

 集落の中心に、義民の丘と呼ばれる山中一揆で処刑された人々を追悼するための公園がある。

義民の丘

 ここはかつて柿の木坂と呼ばれていた。一揆の大将である徳右衛門が津山藩に捕らえられた場所である。

 義民の丘には、恐らく一揆の首謀者を祀るコンクリート製の祠のようなものがある。義民堂というそうだ。

 義民堂の中を覗いてみると、石が5つ置いてある。

義民堂

義民堂の内部

義民堂に安置された石

 この石たちが何を意味するのかは分からない。

 一揆の首謀者が処刑された後、村人たちは藩を憚って、処刑された人々を公式に弔うことが出来なかったことだろう。

 もしかしたら、この石は、そんな時代に処刑された首謀者たちの墓石として置かれていたものではないだろうか。

 義民の丘には、津山藩に捕らわれ、斬首された一揆勢51名の名を刻んだ慰霊碑が建っている。

山中一揆義民慰霊碑

 山中一揆義民慰霊碑は、昭和57年に建てられた。

 地元の人々は、義民たちのことを長年忘れずに語り継いだのである。

 この近くを流れる旭川の土居中河原において、25名の一揆勢が斬首された。

 その時に処刑された一揆勢を慰霊するために建てられた土居河原碑と呼ばれる慰霊碑が、真庭市久見にある真言宗の寺院、萬年山清水寺の境内にある。

清水寺

清水寺本堂

 境内に西側に、慰霊碑が建っているが、文字が風化していて読み取れない。

土居河原碑

 ここから更に北上し、真庭市黒杭にある妙典塚を詣でた。

 妙典塚は、曹洞宗の寺院、露松山大林寺の境内にある。

妙典塚

 妙典とは、「妙法蓮華経」のことを指す。

 妙典塚は、山中一揆の鎮圧の過程で処刑された51名の犠牲者を供養するため、天保四年(1833年)に大林寺住職が法華経の一字一石塚になぞらえて建てた塚である。

妙典塚

 ここから更に北西に行く。蒜山高原とその奥の名峰大山が見えてくる。

 真庭市蒜山西茅部にある田部義民の墓を訪れた。

田部義民の墓

 ここには、大森の七左衛門を中心に、西茅部村から山中一揆に参加して処刑された20名の村人の墓がある。

 墓は当初からこの場所にあったのではなく、徐々に集められたのだという。

田部義民の墓

 墓石に刻まれた、物言わぬ石仏はどこか悲し気だ。

 山中一揆とその鎮圧の経過は、食料を巡る武士と農民の争いである。言うなれば生存競争である。

 現代の日本人が、食料を巡ってお互い争い殺しあうというのは想像出来ないが、食料が少なくなれば、そのような時代が再びやってくる可能性はある。

 人間は、食料にゆとりがあるからこそ、余裕のある精神状態を維持できる。

 山中一揆の史跡は、生命維持のための余裕を失った人々の行動を表すものである。人々の追い詰められた精神状態を思うと、そこに悲しみを感じる。

 日々の食料には、何よりも感謝を捧げる他ない。