誕生寺は、天正六年(1578年)に、岡山城主宇喜多直家の軍勢に襲撃され、御影堂が焼け落ちた。
そのような法難が二度と起こらないように、延享二年(1745年)に誕生寺守護仏として守護大仏が開眼供養された。
作者は梵鐘職人の名人、大谷相模掾藤原正次である。
この守護大仏は、江戸期の鋳金仏中の最優秀作として、戦争中も保存を命じられ、戦時供出を免れた。
確かに275年前に鋳られた仏像にしては、古さを全く感じさせない。
守護大仏の隣には、誕生寺で最も古い建物の観音堂がある。
観音堂は、寛永八年(1631年)に津山藩初代藩主森忠政により建立された。中国三十三観音霊場の一つに数えられている。
前回の記事で書いたように、第十五世通誉上人は、元禄十二年(1699年)に江戸に赴いた際、八百屋お七の供養をお七の遺族に頼まれ、遺品を作州に持ち帰り、この観音堂にお祀りする観世音菩薩立像の前で供養した。
それ以来、この観音菩薩像は、「お七観音」と呼ばれて崇敬されるようになった。
お七観音は、衆生の心を見透かすような目をこちらに向けておられる。
観音堂の近くには、岡山県指定文化財となっている石造五輪塔がある。かなり古びたものだが、一番下の方形の地輪の部分だけが新しく見える。
石造五輪塔の横に生えている木は、両幡の椋と呼ばれる。
勢至丸が誕生した時、西から白幡二流れが飛び来たって、この椋の梢にかかり、その七日後に飛び去って行ったという。
この両幡の椋は、三代目であるという。
両幡の椋のある場所から、奥の勢至堂に行くまでには、国登録有形文化財の無垢橋を渡る。
この無垢橋は、大正9年に建造された石造桁橋である。古くなった石造物は、しみじみと味があっていいものだ。
無垢橋を渡ると、法然上人の父母を祀る霊廟である勢至堂がある。
この勢至堂は、安永八年(1779年)に再建されたものである。
法然上人が仏道に入ることになった原因は、父漆間時国が、明石定明に討たれた時、息子の勢至丸に、仇討に生きるのではなく仏道に生きることを諭したためと伝えられている。
仏教は、現象世界のことは全て縁起の法則で生起していると説く。原因と結果があって、それが限りなく続くのが現象世界である。
漆間時国と明石定明の土地を巡る争いが無ければ、現象世界に浄土宗は生れてこなかった。南無阿弥陀仏の名号がここまで日本に広まることもなかった。ここに参拝する私もいなかったことになる。時国が定明に闇討ちで殺されたことが縁となって、様々な現象が生まれて来たことになる。
勢至堂の側には、石造宝篋印塔がある。
また、数多くの石造五輪塔がある。
また、勢至堂の近くには、勢至丸の産湯に使われたとされる産湯の井戸がある。
宇喜多直家勢による誕生寺襲撃の直前に、深誉上人はこの井戸に法然上人の御影像を沈めて隠したわけだ。
境内には巨大な石造五輪塔がある。森忠政公の長男森大善亮重政と忠政公の養母大野木殿の墓である。
森重政は、元和四年(1618年)に26歳で死去した。大野木殿は、柴田勝家の娘で、森忠政が7歳の時に忠政の養母になったという。
織田家の家臣の妻となったが、夫が戦死したので、尾張で詫び住まいをしていたところ、津山藩主となった忠政が津山に呼び寄せたという。
大野木殿は寛永四年(1627年)に死去した。先ほど紹介した観音堂は、森重政と大野木殿の供養のために建立されたもので、二人の位牌がお七観音の前に祀ってある。
誕生寺奥の院の六角堂浄土院は、貞観四年(862年)に慈覚大師が創建したもので、漆間氏の菩提寺だったそうだ。
元々比叡山と漆間氏の縁は深かったようだ。
この浄土院には、法然上人自筆の両親の霊牌と阿弥陀如来立像が祀られている。
誕生寺をお参りすると、法然上人がいかに両親を大事に思っていたかが実感できる。
仏教では恩愛の情は仏道成就の妨げになるとされることがあるが、仏道に深く入った高僧も、親を思う情を無くすことは出来ないようだ。