名塩

 有馬の史跡巡りを終え、山川出版社兵庫県の歴史散歩」上巻に載っている神戸市内の史跡は全て巡り終わった。

 これからは、阪神間の史跡を巡ることになる。以前芦屋市の史跡を巡ったが、今後の摂津の史跡巡りでは、芦屋市、西宮市、宝塚市の史跡を巡ることになるだろう。

 今回は、兵庫県西宮市にある名塩(なじお)という地域を紹介する。

 名塩は、江戸時代に名塩和紙という雁皮紙の生産地として栄えていた。

 先ずは、その名塩和紙の歴史を紹介し、実際に紙漉き体験をすることが出来る西宮市名塩2丁目にある名塩和紙学習館を訪れた。

名塩和紙学習館

 名塩和紙の発祥は、江戸時代初期の慶長、元和年間と言われている。その頃、越前から雁皮を使う製紙法がこの地に伝わった。

 名塩の人々は、この地で取れる泥土を雁皮に混ぜて、ノリウツギを接着剤にして、名塩鳥子紙と称される独自の和紙を編み出した。

雁皮

 名塩和紙学習館は、1階が紙漉き体験教室で、2階が展示室になっている。

 展示室には、紙漉きに使われる原料や道具類が展示してあった。

 名塩和紙は、植物素材としては雁皮しか用いない。

 工程を説明すると、先ずはぎ取った雁皮から、表面の黒い皮を丁寧に取り除く。その後、残った白い皮を薄く短く剥ぐ。この作業を水よりという。

黒い皮をはぎ取られた雁皮(白皮)

水よりされた雁皮

 次に水よりされた雁皮を、水と灰汁を入れた大釜で炊く。約6時間炊くと、雁皮は手でちぎられるほど柔らかくなる。

 炊いた雁皮を水で洗い、更に多くの人の手で表面に付いた塵やゴミを取り除く。

 美しい白い和紙を作るには、欠かせない作業である。

塵よりされた雁皮

 次に白く柔らかくなった雁皮を、人の手を使ってほぐしていく。この作業を丁寧にしないと、美しい和紙には仕上がらないらしい。

ほぐされた雁皮の繊維

 一方で、雁皮に混ぜる泥土を作るため、名塩の山から岩石を取り出し、細かく砕いて地面に掘った穴に入れ、水を加えて土こね棒で土の粒が見えなくなるまでこねる。

雁皮に混ぜる土

 また、雁皮を一枚の皮にするためのシャナを作る。シャナは、のりうつぎという植物の皮を発酵させ、その汁を絞り出して作るねりのことである。

のりうつぎの皮

 次に、木製の漉き船の中に、雁皮の繊維と泥土と水を入れてよくかき混ぜる。

 そして、混ざった原料の入った船の前に男性が足を組んで座り、シャナを原料に入れて掻き混ぜ、簀桁(すげた)を両手で持って原料の中に入れ、中の原料を静かにくみ上げて、簀桁をゆらして中の水が落ちるまで待つという溜漉(ためすき)という方法で紙を漉く。

溜漉の工程

 こうして、1枚1枚紙が出来ていく。

 出来上がった紙は、水切りをして、イチョウで作った干板の上に載せられ、刷毛ではきつけられ、乾かされる。

紙を乾かすときに使われる刷毛

刷毛を使って紙を乾かす女性

 乾いた紙は、干板から1枚1枚はがされて、端切り包丁で切られて長さを揃えられる。

 こうして名塩和紙は完成する。

名塩和紙を用いて作られた照明用具

 泥土入雁皮紙である名塩和紙は、日焼けせず、虫に食われたりシミが出来ることもないので、長期の保存に適している。

 そのため、江戸時代には、各藩の藩札に使われたり、高級な襖の上張り、下張り用紙として使われた。

名塩和紙の藩札

 例えば、二条城の襖絵は、大半が名塩和紙の上に描かれているという。

二条城の襖絵

 また、熱に強い名塩和紙は、金箔や銀箔を伸ばす箔打ち紙としても使われる。

金箔と箔打ち紙

 こうして名塩和紙は、江戸時代には広く流通した。名塩は紙漉きの町として、名塩千軒と呼ばれるほど繫栄したという。

 今では、名塩和紙を作っている家は二軒だけであるという。それでも、桂離宮などの文化財の修復などで、名塩和紙は今でも重宝されているそうだ。

 さて、名塩1丁目には、文明七年(1475年)に蓮如上人によって創建された浄土真宗の寺院、教行寺がある。

教行寺

 摂津国を訪れていた蓮如は、名塩の住民の懇請により当地を訪れ、念仏道場を建てた。

 住民が更に道場を寺院にしたいと蓮如に願い出て、教行寺が創建された。

 寺院が現在地に移転したのは、元和三年(1617年)だという。現在の本堂は、宝暦十一年(1761年)に建立された。

本堂

 教行寺は、名塩の北側の山の斜面中腹にある。大きな太鼓楼がそそり立っている。遠くからもよく見える楼である。

太鼓楼

 一説によれば、名塩に雁皮紙の紙漉きの技術を伝えたのは、蓮如随行した越前の職人だという。だがこれは、蓮如に名塩和紙の発祥を仮託した伝説に過ぎないだろう。

 また、名塩1丁目のJA兵庫六甲名塩支店の前には、幕末の蘭医緒方洪庵の妻・緒方八重の像がある。

JA兵庫六甲名塩支店

緒方八重の胸像

 緒方八重は、文政五年(1822年)に名塩の医家億川百記の娘として生まれた。

 億川家は、紙漉きで財を成した家であった。

 百記は、大坂の中天游の下で医学を学んだが、そこで緒方洪庵と出会い、娘の八重を洪庵に嫁がせた。

 八重は、病弱な夫を支え続けた。洪庵は、大坂に蘭学塾の適塾を開いたが、八重は適塾の塾生を我が子のように可愛がり、指導したという。

 適塾塾頭の伊藤慎蔵は八重の世話で名塩の女性と結婚し、その縁で名塩に移り住んだ。

 緒方八重の胸像が建つJA兵庫六甲名塩支店は、伊藤慎蔵が名塩で開いた蘭学塾の跡地である。

 JA兵庫六甲名塩支店前の細い道は、今では蘭学通りと呼ばれている。

蘭学通り

 名塩は、和紙と蘭学で栄えた町である。新しい技術や学問を編み出したり、取り入れようという好奇心旺盛な気風が、この地にあったということだろう。