この寺院は、後に紹介する岡益廃寺の瓦などを保管している。
この長通寺の南側の丘陵上に、岡益の石堂という特異な建造物がある。
岡益の石堂は、私が今までの史跡巡りで目にしたものの中で、備前長船の熊山遺跡に匹敵する不思議な遺跡である。
岡益の石堂は、約6メートル四方の基壇の上に、厚さ約40センチメートルの壁石で囲った石室が建てられ、その中央に中心が膨らんだエンタシス形状の石柱が建っている。
石柱の上には、枡形をした中台が2個載っている。
岡益の石堂は、7世紀後半に建てられた建造物とされている。山陰地方最古の建造物である。
ところが何故か明治29年に、岡益の石堂は、宮内省により源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の陵墓参考地にされた。
今でも石堂周辺は宇倍野陵墓参考地として、宮内庁により管理されている。なので、石堂の近くには寄ることが出来ない。
岡益の石堂の上には、保護のため、木製の屋根が建てられている。
その下に摩訶不思議な岡益の石堂がある。
石堂の周囲を囲む柵に沿って、一周回ってみる。
石柱上に載る中台の下側には、忍冬唐草文が浮き彫りにされており、中国の雲崗石窟寺院のものと文様がよく似ているという。
大陸の息吹を伝える建造物だ。
一周ぐるりと回ってみたが、これが一体何なのかは分からなかった。
だが謎を解くカギは、岡益の石堂の奥にある林の中にあった。
岡益の石堂の周辺は、7世紀後半に建立された岡益廃寺の跡である。明治時代までは、岡益の石堂の周辺に、岡益廃寺の瓦や礎石などが散乱していたそうだ。
明治29年に岡益の石堂が安徳天皇陵墓参考地になった際、石堂周辺の地面が掘り下げられ、綺麗に整地された。
それまでは、岡益廃寺跡のある林の中に、石堂も存在していた。
岡益廃寺跡の林の中には、今も寺院の礎石が残されている。
岡益の石堂と岡益廃寺が同じ7世紀後半にこの場所に建てられたのなら、両者は必ず関連するものであろう。
7世紀後半には、新羅や百済などから仏教の僧侶が日本に渡来していた。
岡益の石堂は、当時の朝鮮半島の寺院に建てられた古石塔に似ているという。
朝鮮半島から日本に来た僧侶が岡益廃寺の建設に携わり、半島にもある石塔に似たものをここに建てたのではないか。
岡益の石堂は、度重なる地震で何度も倒壊したようだ。今の石堂は、明治29年に修復されたものだろう。
今ある宮内庁陵墓参考地として整備された石堂よりも、崩れながら林の中に打ち捨てられた明治までの石堂の方が、この謎の遺跡に相応しいように感じる。