文英の石仏群 前編

 1月6日に備中の史跡巡りを行った。

 岡山市北区の立田から門前にかけて、天文年間から天正年間(1532~1592年)に渡って制作された石仏群が存在する。

 石仏の大半に、文英という制作者の銘が刻まれているので、文英の石仏群と呼ばれている。

 岡山市北区門前にある生石(おいし)山は、国道429号線により東西に分断されているが、国道429号線西側の墓地に、2体の石仏がある。

生石山麓国道429号線西側の墓地

 2体の内の1体は、千手観音菩薩像で、もう1体は地蔵菩薩像であった。

 文英の石仏は、表情がユーモラスで、古拙な味わいがあり、大変好もしいものであった。

千手観音菩薩

地蔵菩薩

 地蔵菩薩像の裏側にも、石仏が彫られていた。

地蔵菩薩像の裏の石仏

 裏側の石仏は、少し怒ったような表情をしている。仁王像のように見える。

 ところで、文英の石仏群は、未だに多くの謎に包まれている。先ず制作者の文英という人がどんな人であったかという記録が全くない。

 また、造立目的も分かっていない。

 制作された天文年間から天正年間は、戦国時代の真っ盛りである。恐らく、戦乱に命を落とした人々を供養し、安寧な世が来ることを祈念して、文英という僧侶と地元の村人が、協力して制作したものであろう。

 門前の集落にある臨済宗の寺院、蓬莱山報恩寺も、境内に文英の石仏を有している。

報恩寺参道

報恩寺山門

 報恩寺の山門を潜って右側に行くと墓地がある。墓地の本堂寄りに石仏群が並んでいる。

石仏群

文英の石仏

 報恩寺にある文英の石仏群の内、1体には天文三年(1534年)の銘が明瞭に刻まれている。

文三年銘の石仏

 ところで、文英の石仏群は、制作当時から現在の場所にあったわけではない。

 戦後になって、地下げなどの土木工事の最中に、地中から発見されたものが多い。石仏たちは、まるで打ち捨てられたかのように、地中に埋まっていた。

 文英の石仏が最後に造られたのは、天正十年(1582年)である。

 この年は、秀吉による備中高松城の水攻めが行われた年である。恐らく、備中高松城の陥落後、何らかの理由により、石仏の制作が不可能になり、文英の石仏群は打ち捨てられたのだろう。

 生石山から、足守川左岸の道を南下し、門前交差点を越えて更に南下すると、道沿いに、修復された文英の石仏と説明板がある。

足守川沿いの文英の石仏

 この文英の石仏は、平成6年8月10日に、地元の大角重夫氏によって、異常な渇水で干上がった足守川の川底から、頭部のみが偶然発見されたものである。

足守川の川底から見つかった石仏

 その後、頭部から下の部位が復元され、報恩寺住職により開眼供養がなされた。

 文英の石仏の表情は、温かいようでどこか悲しげである。悲しき戦乱の時代を見据えてきたからであろうか。

 文英の石仏群には、これからもその慈悲の表情で、我々の住む世を温かく見守って頂きたいものだ。