猪崎城跡から北上し、福知山市猪崎にある臨済宗の寺院、木塔山醍醐寺に赴いた。
私が訪れた日は、境内の楓の紅葉が進んでいた。季節の移り変わりを感じた。
醍醐寺は、興国二年(1341年)に、後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏によって建てられた寺だという。
足利尊氏と後醍醐天皇は、南北朝時代に日本を二分して争った間柄である。その尊氏が、対立した後醍醐天皇の菩提を弔うために寺を建てたというのが、不思議に感ぜられる。
四脚門の山門を過ぎると、正面に広壮な本堂がある。
醍醐寺には、福知山市指定文化財である三光国師像図、木造薬師如来坐像、醍醐寺額下書きという3つの文化財がある。
本堂には、本尊として木造薬師如来坐像が安置されている。
本堂の障子に手をかけると、すうと左右に開いた。禅寺の本堂らしい簡素な空間の奥に薬師如来坐像が祀られていた。
醍醐寺の木造薬師如来坐像は、桃山時代を代表する仏師康正が、元亀二年(1571年)に制作したものだと伝わっている。
威厳のあるお姿であった。
三光国師像図は、室町時代中期の画家、土佐光信の筆と伝わる。三光国師は、後醍醐天皇が帰依した孤峰覚明の号である。
醍醐寺額下書きは、醍醐寺を祈願寺とした6代将軍足利義教が自書したものである。
それにしても、足利尊氏はなぜ対立した後醍醐天皇を弔おうとしたのだろう。
尊氏は、最初は後醍醐天皇の下で働いて、鎌倉幕府を滅亡に導いた。
その後の後醍醐天皇による建武の新政の不公平と独断専行に嫌気がさして、尊氏は天皇に反旗を翻した。
そして持明院統の天皇を立てて北朝とし、吉野に移った南朝の後醍醐天皇と対立した。
戦前の歴史教育では、尊氏は天皇に反旗を翻した逆臣と国民に教えられた。
ここで不思議なのは、そんな悪人と言われる人が、なぜ多くの武士たちの支持を集めて幕府を開くことが出来たのか、ということである。
当時の武士たちにとって、所領の安堵は、何よりも重要なことであった。
尊氏は、足利氏という源氏の名門の棟梁であった。性格が鷹揚で気前が良く、親分肌で、自分に付いてくる武士たちの所領を安堵することを約束し、実行した。
多くの武士は、鎌倉幕府に代わる自分たちの棟梁として尊氏を推戴した。
南朝の武将北畠親房が著した「神皇正統記」に代表される、万世一系の天皇が統治する日本という神国思想を背景に、イデオロギーで武士に服従を求める南朝方と比べ、現実的に「飯を食わせる」ことに重点を置いた尊氏が天下を取ったのは、歴史のしからしむるところだろう。
だが尊氏の気前の良さが、室町幕府の財政基盤を貧弱にし、後の戦国の世を生むのも歴史の必然であった。
そんな鷹揚な尊氏は、一度自身が仕えた後醍醐天皇が崩御した時、哀悼の念に堪えられなくなったのではないか。
さて、境内の東側には、丹波半僧坊大権現という神様を祀る社があった。
半僧坊大権現は、臨済宗の寺院の鎮守として祀られている神様である。
浜松方広寺の半僧坊大権現や、鎌倉建長寺の半僧坊大権現が有名である。
無文元選禅師が浜松にある奥山方広寺を開いた際、禅師の前に半僧半俗の素性の分らぬ老人が現れた。
老人は、今後禅師に仕え、方広寺を守護していくことを誓ったという。
老人は、禅師の遷化後に姿を消したが、その後も奥山の木々の間に姿を現すなどし、山では不思議なことが起こった。
僧侶や人々は、老人を奥山半僧坊大権現として祀ることにした。
八木仏師が神像として刻んだその姿は、猿田彦神そのままの、高鼻乱髪白衣の天狗の姿であるという。
醍醐寺の半僧坊大権現は、明治22年に醍醐寺の鎮守として、奥山半僧坊大権現を勧請したものである。
一人一事の願いを成就させる一願成就の神様として篤く敬われたという。
それにしても、この醍醐寺だけでなく、庵我神社にしても養泉寺にしても、福知山には後醍醐天皇と関連する寺社が多い。
天皇にとっても、この地は思い入れの深い土地だったのだろう。