福知山市治水記念館

 常照寺から南に行った福知山市下柳町に、度重なる水害に苦しんできた福知山の治水事業の内容や、洪水被害について展示している福知山市治水記念館がある。

福知山市治水記念館

 福知山市治水記念館は、明治時代初期に建てられた元呉服屋の町屋を改築したものである。

 福知山が商都として発展したのは明治以降で、福知山に残る町屋は全て明治以降のものである。この建物もその一つだ。

福知山市治水記念館

 福知山市治水記念館の間口は3間半(6.75メートル)と狭く、奥行きのある作りである。

 背後に流れる由良川の堤防に面して、土蔵と離れが建っている。

治水記念館と背後の由良川堤防

 私が記念館に入ると、奥から案内役である福知山市役所の女性職員が出てこられた。

 この方が親切丁寧に解説して下さったが、言葉のイントネーションが、私が普段使っている関西弁と異なっていた。

 福知山は、関西圏だと思っていたが、発音に北陸の影響があるように思った。

 女性職員の北陸系(?)のイントネーションと、ゆっくりとした話し方のおかげで、心静かな時間を過ごすことができた。

 さて、福知山の城下町が整備されたのは、明智光秀丹波を平定した天正七年(1579年)以降のことである。

福知山城と由良川土師川、堤防(下が北)

 丹波、近江、若狭の三国にまたがる三国岳を水源とする由良川は、丹波北部を西に流れ、この福知山盆地で90度北に曲がって日本海に向かって流れている。

 かつての由良川は、今福知山城が建つあたりを西に流れ、城より西にあるJR福知山駅のあたりから北に向かっていた。

 だが光秀は、土師川由良川が合流する場所の西側に福知山城を築き、城から北西にかけて堤防を築いて、由良川の流れを現在のように城の東側で北に向かうようにした。

福知山城と明智藪(南向きに撮影された写真)

 光秀が由良川の流れを北向きに変えた場所は、東から流れてくる由良川と南から流れてくる土師川が合流する場所で、流れが強くなる場所である。

 光秀は、西に向かってくる水流を弱めるため、川に根の強い竹を植えて竹藪を作ったという。

 これが明智藪と呼ばれ、今でも福知山城の東側に一部残っている。

 さて、元々川が西に向かって流れていた場所に堤防を築いて、川の向きを北向きに変え、堤防の西側に福知山の城下町を整備したため、福知山城下は、堤防が決壊する度に水害に悩まされるようになった。

大正10年の水害

 光秀が堤防を築いてから230年間で、堤防が決壊したのは実に40回を超えるという。

 案内の女性職員は、「明智光秀が堤防を築いて由良川の流れを変えて、堤防の西側に町を作ったおかげで、福知山は水害に悩まされるようになりました」とおっしゃっていた。

 まるで祖父が作った莫大な借財のおかげで苦労している孫が、祖父を冗談交じりに非難するような口調であった。

 私は、光秀がまだ福知山市民の中に生きていると感じた。

昭和28年の水害

 それにしても、光秀は何故このような場所に城を築き、堤防を築いて川の流れを変えたのだろう。

 城の東側に由良川を流すことで、川を天然の濠として、城の東側の守りを固めるのを最優先としたのであろう。

 当時はまだ戦乱の世で、城の防御力が何よりも重視された。また当時は川を行き来する船が交通の主力だった時代である。城や町がすぐ川に接続しているのは、物流の上でも都合が良かったのだろう。

 さて、光秀が築いた光秀堤が洪水後に修復されたという記録は、明治になるまでない。

 明治29年の水害後の災害復旧の際に堤防が修復され、明治40年の大水害後の明治42年に、明治29年の堤防の上に更に2段目の堤防が築かれた。

由良川左岸の堤防

 福知山市治水記念館の東側に、2段の堤防があるが、1段目が明治29年の堤防、2段目が明治42年の堤防である。

 手前の地面は、由良川の水面から約4メートル上にある。堤防の高さは約11メートルである。

 昭和2年の北丹後地震で、堤防のあちこちに亀裂や陥没が生じた。

 堤防の基礎が砂礫だったので、それまでは堤防の下部から水が浸透し、堤防内で湧水が出ることが多かった。

 そのため、北丹後地震の後、堤防の表側をコンクリートで包み、砂礫層に鋼鉄製の矢板を打ち込んで、水の浸透を防ぐ補強を行った。

 記念館の裏側に、今までの水害時の水位を示す水位モニュメントがあった。

由良川の水位モニュメント

モニュメントの説明板

 今までで最もひどかった水害は、明治40年の水害で、8.48メートルまで水位が上がった。

 その次が何と平成25年である。補強を重ねた堤防が、台風18号の大雨による増水で決壊し、水位8.30メートル以下が水没した。

 さて、福知山の町屋には、2階や3階に「タカ」と呼ばれる板間のデッキを備えているところが多かった。

 水害時に、屋根裏に備え付けた滑車に通したロープで荷物を2階や3階のタカに上げて、荷物の水没を免れるという仕掛けだ。

屋根裏の滑車とロープ

ロープにくくりつけた荷物

2階と3階のタカ

3階のタカ

 私も女性職員に勧められて、ロープを持って荷物を上げてみた。滑車のおかげで、割合簡単に上がる。

 女性職員は、「福知山の人は水害に慣れていますので、危ないと思えば荷物を滑車でタカに上げるのです。でもまさか平成25年に堤防が決壊するとは思いませんでした」とおっしゃっていた。

 2階に上がると五月人形や鯉のぼりが展示してあった。

記念館の2階

 2階には、実際にこの建物の2階で使われていた障子が展示してあった。

 女性職員は、「この記念館の建物も、明治の建物なので、今まで何度も水害で水に浸かってきております。そこの障子には、昭和28年の水害でここまで水が来たという矢印がついております」と説明された。

2階の障子

 なるほど、ここまで水が来れば2階にも居られない。3階のタカか屋根の上に上がるしかないだろう。

 さて、2階には治水記念館の模型があって、その模型の背後にあるスクリーンに洪水の状況を映して、昭和28年の水害時の様子がどうであったかをアニメーションのように見せる装置があった。

 女性職員は、「これが売りなもんですから、是非ご覧になって下さい」とおっしゃった。

 そう言われれば、見ないわけにはいかない。

昭和28年の水害の再現

 昭和28年の水害の日は、朝から豪雨が続き、午後には堤防が決壊し、夜には各家の2階まで水が来たそうだ。

 この模型を使った再現映像では、水が先ほどの障子の矢印の辺りまで来ている。

 この映像の家族は、父母と小さな男子の3人家族で、水が2階に来るまでに荷物を3階のタカまで上げ、自分たちは屋根の上に脱出した。

 面白かったのは、まだ1階が水に浸かる前の午前中に、父親が近所から水が溢れだしているという情報を得て、母親にご飯を炊いて握り飯を作るように促す場面であった。

 竈は1階にあるので、1階が水に浸かればご飯を炊くことが出来なくなる。

 父親は、1階が水に浸かることを見越して、母親に早めに握り飯を作らせて、昼飯、夕飯を2階、3階や屋根の上で食べられるように支度させたのだ。

 この辺りに、福知山の人々が水害に慣れている様子が窺えた。

 映像が終わると、女性職員は、「昭和28年の水害を知るお婆さんにこの映像を見せると、実際このとおりだったとおっしゃっていました」と説明された。

 明智光秀の築いた町並みの構造上、福知山は水害が多いが、由良川をこの世からなくすことは出来ない。

 由良川は水害以上に地域に恵みを齎す川である。

 水害が多い地域ならば、それなりに対処する方法を編み出して、家族や地域で協力して対処していく、そんな人々の強さを感じることが出来た。