無動寺、若王子神社の参拝を終え、次に向かったのは、神戸市北区山田町原野にある天津彦根(あまつひこね)神社である。
今日は、農村舞台を有する神社を三社紹介するが、天津彦根神社がその一つ目である。
祭神の天津彦根命は、記紀神話の系譜上では、天照大御神の三男である。天津彦根命を祖とする国造(くにのみやっこ)は多い。
国造は、律令制以前の古代の地方長官のことだが、大和王権が各地を勢力下に置いた際に、地方の有力者一族を任命したものである。
神話では、各国造の祖先は、系譜上天皇家の傍系とつながっているわけだが、それが本当かどうかは別にして、皇室と日本の有力氏族の祖先を同族とすることで、国の一体感を醸成しようとしたのが分かる。
ちなみに皇室の藩屏・藤原氏は、天照大御神の次男、天穂比(あめのほひ)命を祖とする。
長男・天忍穂耳(あめのおしほみみ)命の子孫が皇室である。
さて天津彦根神社の本殿はささやかなものだったが、彫刻などは凝っていた。
天津彦根神社の有する農村舞台は、それほど大規模ではない。おそらく人形浄瑠璃を主として演ずる舞台だろう。
それにしても、神戸市北区山田町一帯は、なぜこうも農村舞台が盛んだったのだろう。
江戸時代には、農村での演芸は原則ご法度であった。当時の農村の娯楽は、祭りぐらいだったろう。
山田町一帯は、江戸時代には、幕府直轄領だったらしい。西播磨の奥地にも農村舞台は複数あるが、調べてみると、私が訪れた農村舞台は、全て幕府直轄領にあった。
幕府は、諸藩と比べて、民衆の娯楽を大目に見ていたということか。
次なる目的地である、神戸市北区山田町下谷上(しもたにがみ)にある天彦根神社を訪れた。
神戸市立山田中学校のすぐ隣にある神社である。
この神社の祭神も天津彦根命である。神戸市北区には、天津彦根命を祭神とする神社が不思議と多い。
下谷上の天彦根神社農村舞台は、天保十一年(1840年)に建てられた。
この舞台は、神戸市北区山田町の農村舞台としては規模は最大で、間口約12メートル、奥行き約8メートルもある。
内部は見学出来なかったが、この舞台は皿廻し式の廻り舞台、花道、太夫座、二重台、大迫り、ぶどう棚を有する。
また、花道の一部が回転して反橋が出るという、全国唯一の機構を持っている。
建築年代が古く、凝った機構を有する天彦根神社の農村舞台は、国指定重要有形民俗文化財となっている。
舞台の床下を覗く隙間があったので、カメラのフラッシュを焚いて撮影したが、廻り舞台と思われる円形の機構が僅かに見えた。
床下から人力で廻り舞台を廻すのだろう。江戸時代に、演劇上の効果を考えながら舞台を設計し、建築するのは楽しかったに相違ない。
今思ったが、こんな仕掛けのある舞台を農村だけで作ることはできなかったろう。必ずや、舞台建築の専門家が呼ばれたことだろう。
それを幕府の代官所が把握していない訳はない。となると、公儀の許可があって建設できたものとしか考えられない。
江戸時代後期には、幕府の民衆支配も緩んでいたのか、敢えて緩ませていたのか、どちらかだろう。
最後に訪れたのは、神戸市北区山田町上谷上にある天満神社である。祭神は言わずと知れた菅原道真公である。
天満神社の農村舞台は、建物の中を参道が通る割拝殿式の建物となっている。
境内に入るには、農村舞台の中の参道を歩いていくことになる。
その先にある茅葺の建物が本殿である。
しかしこの本殿、茅葺のためか、民家か辻堂のように見えて、神社の本殿らしくない。
さて、天満神社の農村舞台は、舞台の中を参道が通っているわけだが、上演の時はどうするかと言うと、参道を板で覆って舞台にするようだ。
この舞台の地下には奈落という部屋があり、楽屋になっているそうだ。
天満神社農村舞台は、兵庫県重要有形民俗文化財に指定されている。
江戸時代当時の民衆の娯楽も、後世の我々は文化として見ている。
ということは、現代の我々の娯楽の中にも、後世文化と見なされるものがあることになる。
私の世代が子供のころテレビ放送されていたアニメやドラマは、今では懐かしい番組程度の認識しかされていないが、その中でも優れた番組は、後世の人達に今の人達と異なる評価をされるようになるかも知れない。