店の間の奥は仏間になっており、立派な仏壇が備え付けられている。
仏壇中央には釈迦如来座像が祀られている。
仏間は、この家の中央にある。仏教がこの家の精神的中心にあったということだろう。
店の間の東側には居間が2部屋南北に連なっている。
居間は、台所で作られた料理が運ばれて、家族が食事をした部屋だろう。
ここは森家の人々がくつろいだ空間だったのだろう。
居間の2部屋には、書や浮世絵が多数展示されている。
浮世絵は、歴代森家当主のコレクションである。
当時浮世絵は流行品であった。
北側の居間を奥の間から見ると、2階に上がる階段が天井に設置されているのが分かる。
2階に上がる時には、この階段を下げて登ったのだろう。
北側の居間には、江戸時代に発行された「四国八十八ケ所巡礼絵図」が展示されている。宝暦十三年(1763年)初版、文化四年(1807年)再版のものである。
森家四代近三郎(俳号藍尾)は、文化九年(1812年)の三月から五月にかけて、実際にこの地図を片手に四国八十八ケ所巡りをしたようだ。
讃岐の76番札所金倉寺が最初で、阿波、土佐、伊予を巡り、讃岐の75番札所善通寺を最後に訪れた。
江戸時代には、今の四国八十八ケ所霊場は確立し、巡礼用の案内もこのように出版されていたわけだ。
又、北側の居間には、森家三代與右衛門が寛政九年(1797年)に行った富士登山の記録が展示されている。
当時は、富士山を信仰する人々で結成された富士講による登山が盛んであった。三代與右衛門も、山岳信仰の思いから富士に登ったようだ。
富士山の各合目の様子を実に細かく記載している。
ところで森家の歴代当主は、俳諧をよくしたようだ。
特に四代近三郎は、藍尾(らんお)という俳号を名乗り、俳人として名を成した。
奥の間にはその藍尾の文机が残されている。
藍尾の文机の引き出しには、藍尾が文政三年(1820年)に書いた「机の銘」と題した墨書が残っている。
この机上に四海の風興の全てがあるという藍尾の感興が書かれている。
俳諧は、尻取りのように、遊戯性の高い句を集団で繋げていく文芸である。集団の文芸と言ってよい。1人で執筆する孤独な文芸ではない。
この「机の銘」を読むと、藍尾が俳諧における人との交わりを大切にしていたことが分かる。
今まで紹介した和室の南側には土間がある。
土間から奥の酒蔵に進む。酒蔵では、地元の画家が描いた絵画の展覧会が行われていた。
立派な酒蔵である。
七釜屋森家では、酒造も行っていた。その頃に使われていた酒蔵だろう。
酒蔵の周囲に作られたホールには、浜坂出身の文化人や教育者、登山家などの紹介資料が常設展示されている。
中でも新田次郎の小説「孤高の人」のモデルになった単独登山家加藤文太郎のことは、次回の加藤文太郎記念図書館の記事で紹介する。
酒蔵から裏庭に出ると、母屋や酒蔵を外側から眺めることが出来た。
以命亭の東側には水路が流れ、以命亭の石垣が水路に面している。
酒蔵の東側から水路に降りる出入口がある。
以命亭で造られた酒などの商品は、この水路を使って運ばれたことだろう。
七釜屋森家は江戸時代中期から現代までの浜坂を代表する富豪であった。
森家歴代当主は、風雅な生活をこの地でしてきたが、その森家は今や浜坂にはいない。
森家の風雅の土台も、明治の近代化以降崩れていった。今や俳諧は世間では行われていない。
時代は少しづつ変化する。我々もその渦中にあるわけだ。