倚松庵 中編

 谷崎が昭和18年から昭和23年にかけて執筆し、昭和24年に全巻を出版した大作「細雪」は、谷崎が昭和11年から昭和18年まで住んだ倚松庵での生活を題材にしている。

 「細雪」の主役は、大阪船場の商家蒔岡家出身の四人姉妹である。

 婿養子を迎えて船場の蒔岡家本家を継いだ長女鶴子と、同じく婿養子を迎えて芦屋に分家した次女幸子、本家と分家の間を行ったり来たりする三女雪子、四女妙子がその四姉妹である。

蒔岡家のモデルの森田家四姉妹と松子の長女

 次女幸子が、夫貞之助、長女悦子と住んでいる芦屋川沿いに建つ家が作品の舞台で、独身の三女雪子、四女妙子はこの家に入り浸り、家族同然に生活している。

 この幸子の家のモデルが倚松庵で、貞之助は谷崎自身、幸子は谷崎の妻松子、悦子は松子の連れ子の恵美子がモデルであろう。

倚松庵南東の応接間

 松子は森田家四姉妹の次女で、森田家長女朝子が鶴子の、三女重子が雪子の、四女信子が妙子のモデルだろう。

 作品は、昭和11年秋から昭和16年春にかけての阪神間の上流社会の生活を描いている。

 蒔岡家は、四姉妹の両親が没してから既に落ち目になっているが、それでも阪神間ではまだ名が通った家である。

応接間の暖炉跡

 内気で控え目のため、30歳になっても独身の三女雪子のところに、あちこちから縁談話が入ってくる。

 他の三姉妹は雪子を縁づかせようとやきもきし、努力するのだが、雪子は作品中で何度もお見合いをしては破談となる。

応接間の南東側

 基本的に、作品の本筋はこの雪子のお見合いの成り行きである。

 大人しい三女雪子と反対に、活発でしっかり者の四女妙子は、男と駆け落ちを図ったり、人形作りの仕事を始めて半分独立したり、写真家やバーテンダーといった蒔岡家からすれば格下の階層の男性と交際し、様々な風波を起こす。

 この妙子の生活が作品の第二の主軸である。

応接間から西側の食堂を見る

 その2つの軸を中心にして、姉妹の平安神宮での花見や、蛍狩り、月見といった風雅な遊興の場面、神戸オリエンタルホテル、南京町での食事の場面、昭和13年阪神大水害の場面など、昭和10年代前半から半ばにかけての、京阪神の上流社会の風俗、生活が細かに描かれている。

 雪子のお見合いの成否や、妙子の突拍子のない行動が、作品を動かす主な出来事になっているが、それを巡ってそれぞれの人物が抱く心理の起伏や、生活上の小事件などが、次々に生起する。

応接間と食堂の間の三枚扉の一枚

 それが自然で滑らかな谷崎の文体(三島は「丸い文体」と呼んだ)によって、低く丸い丘陵が切れ目なく連続して現れるように、次々と現れては消えていく。

 筋だけ聞くと、昭和初期のお嬢さんたちの鼻持ちならない生活の話のように思えるかも知れないが、これが不思議に面白く、読み始めると止まらない。 

応接間西側の食堂

 今回この記事を書くに当たって、また「細雪」を読み始めたが、知らぬ間に100ページは進んでしまった。

 ページを繰る手がもどかしい面白さというのとは少し違う。丸いボールが坂道をどこまでも転がるような感じで、蒔岡家の生活上の小事件がどうなっていくのか、ついつい気になって読んでしまう。

谷崎家が実際に使った食堂のテーブル

 谷崎の文体は、まろやかなようで、実は明晰であり、登場人物の心理を明快に分析し、表現している。

 その手腕がさりげなく自然で、まるで生きた人物がそこに実際に生きているように感じる。

食堂西側の縁側

 倚松庵をモデルにした幸子の家や、四姉妹の着物の着付け、当時の阪神間の生活風俗の描写も細やかで、その時代の空気が伝わってくる。

 私は前回の記事で、「細雪」を「現代の源氏物語」と呼んだ。

 「源氏物語」は、平安時代中期の殿上人の身分や立場、男女の交際のあり方、部屋の様子や生活用具、衣服などまで、その時代の貴族の生活様式を実に細かく描いている。

縁側から庭への降りる際の踏石

 「源氏物語」を読めば、平安時代中期の宮中貴族の生活が、冷凍食品を解凍するかのように現代に再現される。

 勿論現代語訳などではなく、原文で読まなければ、この「解凍」を味わうことは出来ない。

縁側の北側、倚松庵1階西側の和室

 なぜなら紫式部は、当時では当たり前すぎて常識とされていたことを省略して書いているからである。

 この省略のせいで、「源氏物語」は読みづらい文章になっているが、逆に言うと、紫式部が省略した部分を知ることで、当時の常識が分かるのである。現代語訳では、この省略部分を補ったりしているので、当時を知るのに逆に遠くなる。

和室床の風取窓

 「細雪」も、昭和10年代の阪神間の上流社会の生活風俗をそっくりそのまま冷凍保存している。

 この作品を読めば、その時代の生活様式が目の前に再現される。そういう意味で、私はこの作品を「現代の源氏物語」と呼んだのである。

1階和室から眺める庭

 私の父方の祖父母は、昭和10年2月に結婚し、西宮で八百屋を営んでいた。「細雪」の蒔岡家とは比べるべくもない庶民階層だが、私の祖父母が、「細雪」で描かれた時代の阪神間で生活していたと思うと、感慨深いものがある。

 昭和10年前後の大阪は、大大阪(だいおおさか)と呼ばれ、関東大震災で傷ついた東京を凌ぐ日本最大の商都になっていた。

1階和室北側の廊下

 「細雪」時代の阪神間は、その大大阪の通勤圏の住宅街として開けていたのである。

 倚松庵は、幸子が住んだ家のモデルとなった家だが、今回倚松庵を訪れてから、その間取りを頭に入れて「細雪」を読むと、幸子の家の蒔岡家の生活がまさに目に浮かぶように感じられた。

廊下突き当りの洗面場

 1階の応接間や食堂、和室、廊下の電話機などが作品の中に出てくるが、その配置が分かっていると、作品を読みながら、もう一人の自分がその家で生活しているかのような錯覚を覚える。

 倚松庵が現代に残っているお陰で、私たちは「細雪」の世界を追体験することが出来る。

1階トイレ

 今回訪れて思ったが、倚松庵は決して豪邸という訳ではないものの、各部屋のしつらいや戸の意匠などがさりげなく凝っていて、「細雪」の世界に相応しい、閑雅な和風建築であった。

 倚松庵の雰囲気は、即ち「細雪」の雰囲気である。

風呂場

 谷崎は、戦時中の昭和18年に「細雪」の執筆を開始し、発表したが、軍部から「時局に合わない」と言われ、発表を差し止められた。

 谷崎は仕方なく私家版として出版したが、それも軍部に止められた。

 戦争中に、なぜこんな上流階級の悠長な生活を書いているのか、という考えからであった。

台所

勝手口前の風呂の焚き口

 谷崎は発表を諦めながらも、戦火の中悠々とこの作品を書いた。

 戦後になって堂々と発表すると、今度はGHQの検閲に遭った。

 GHQの許可が出なかった部分を削り、昭和24年にようやく「細雪」は出版された。

 戦中戦後の軍部やGHQの出版文化への容喙にも負けずにこの作品を書き続けた谷崎の努力は見上げるべきである。

 そのお陰で我々の世代は、昭和10年代の阪神間の文化を結晶化したとも言うべき「細雪」の世界を、今も味わうことが出来る。