此隅山城跡から下山し、車に乗って次なる目的地に向かう。
上の写真の丘陵上に、かつて地元の大庄屋の平尾家の別荘が建っていた。
大正6年の別荘建築工事中に、長径9メートル、短径6メートル、高さ2メートルの円墳が見つかった。
古墳からは、3面の銅鏡、銅鏃、鉄鏃、鉄剣、鎌、斧、ヤリガンナ、ヒスイ、ガラスなど約80点の遺物が発掘された。
発掘された遺物からして、3世紀後半から4世紀前半までに築造された古墳だとされる。
発掘が終わった古墳の上に別荘が建てられたものと思われるが、別荘は今はなくなっており、百合ヶ丘公園という公園になっている。丘陵の西側の民家寄りに、公園への入口がある。
入口の扉を開けて入り、右に続く道をフェンス沿いに歩くと、丘陵に上がって行く道につながり、丘陵上の削平された場所に出る。
ここが百合ヶ丘公園だが、古墳があったことを示すものは何もない。
森尾古墳には、三基の埋葬施設があり、それぞれに1面づつ銅鏡が埋葬されていた。
埋葬施設は、竪穴式石室であったという。公園に大きな石が置かれているが、石室の石だったものかどうかは分からない。
発掘された3面の銅鏡の内、2面は魏鏡とされる三角縁神獣鏡で、その内1面には正始元年(240年)という中国・魏の年号が刻まれていた。この鏡は現在京都大学総合博物館が所蔵しているが、そのレプリカがかつて見学した兵庫県立考古博物館にあった。
また、残り1面の方格規矩神獣鏡は、平尾家が個人所有しているが、こちらは西暦8~23年に存在した中国・新の時代に制作された鏡であるらしい。
「魏志倭人伝」によれば、魏の皇帝は正始元年(240年)に邪馬台国の女王卑弥呼に銅鏡100枚を下賜したという。
そうだとすれば、森尾古墳から発掘された正始元年の銘のある銅鏡は、卑弥呼が下賜された100枚の鏡の内の1枚である可能性が極めて高い。
森尾古墳が築造された3世紀後半から4世紀前半には、豊岡周辺は大和王権の支配下にあった。
大和王権は、当時のハイテク製品で祭祀用具でもあった銅鏡を、配下となった各地の有力者に分け与えた。各地の有力者は、その鏡を自己を埋葬する古墳に埋めさせた。
森尾古墳から正始元年銘の銅鏡が見つかったということは、邪馬台(ヤマト)国から大和王権に伝わった鏡がこの地域の有力者に与えられたことを示しているだろう。つまり、邪馬台国と大和王権、そして大和王権の後継である現皇室には、連続性があるという証になるのではないか。
森尾古墳は現存しないが、ここから発掘された鏡は、日本という国の始まりの光景を教えてくれている気がする。