兵庫県養父市八鹿町小山にある、つるぎが丘公園という運動公園の一角に、箕谷(みいだに)古墳群が復元保存されている。
昭和58年につるぎが丘公園を整備する際に、地下に埋まっていた箕谷古墳群の発掘調査が行われた。
箕谷古墳群には、1号墳から5号墳までの古墳があった。概ね7世紀初頭から半ばまでに築かれた古墳である。
大藪古墳群は、但馬の国造クラスの実力者を葬った古墳とされているが、箕谷古墳群は、規模からして国造を支えた有力者を葬った古墳だろう。
発掘してみると、古墳群の中で最大の2号墳から、「戊辰年五月」と刻まれた鉄刀が見つかった。
戊辰(ぼしん)という言葉が出てきたので、ここで干支について説明する。
干支とは、中国殷の時代から使用されている数詞で、年月日時、方位、角度などを現わすのに用いられた。
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干と、子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支を、先頭から甲子、乙丑、丙寅・・・と組合せると、全部で60の干支になる。
昔は、この60の干支を年や月や日や時や方位などに当てはめて表すことが多かった。
戊辰戦争の始まった慶応四年/明治元年は戊辰年であった。その次の戊辰年は、60年後の昭和3年、その次が昭和63年になる。
神社や寺院の灯籠などを見ると、年号の下に干支が刻まれていることがある。
例えば寛政乙卯年と刻まれていたら、寛政七年のことである。60年以上続いた年号は、歴史上昭和しかないので、昭和以外だったら、年号と干支さえ分ればその年が何年かが分る。
ちなみに令和3年は、干支では辛丑(しんちゅう、かのとうし)になる。
今年生まれた人が、大人になって、「私は令和辛丑の生まれで」と言えば、ちょっと古風で格好いい。
干支で年を表す習慣は、現代ではほぼなくなってしまったが、史跡巡りをしていると、墓碑や石碑や灯籠や狛犬に、干支が年号とセットで刻まれていることが多い。
干支のことを知って史跡巡りをすると、なかなか楽しい。
2号墳から発掘された「戊辰年五月」の銘のある鉄刀はいつ作られたものなのだろうか。
2号墳は、発掘された遺物から、7世紀に築造された古墳とされている。
7世紀の戊辰年は、西暦608年と668年である。668年は、孝徳天皇が薄葬令を出して古墳の築造を禁止した後になるので、この鉄刀は、608年に作られた可能性が高い。
鉄刀が制作された年が分ると、この古墳に埋葬された他の副葬品が作られた大体の年代も分かって来る。干支から色々なことが分って来るのである。
箕谷2号墳から出土した鉄刀は、干支を含む銘文を持つものとしては、全国で2つ目になる貴重なもので、国指定重要文化財となっている。
「日本書記」には、第15代応神天皇の御代に大陸から書物が伝来し、漢字が日本で使われ始めたと書いている。
応神天皇は、西暦400年前後に在位した天皇であるが、文字の伝来については伝説の域を出ない。
日本に現存する文字で最も古いものは、国宝の金印を除けば、実は古墳から発掘された鉄刀に刻まれた銘文である。文字が金や銀で象嵌されているので、腐食せずに残ったのだ。
埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された鉄刀には、5世紀後半に活躍した第21代雄略天皇と思われる大王のことが銘文で書かれている。
その鉄刀に辛亥年と銘文が刻まれていたが、雄略天皇が活躍した時代から、西暦471年の辛亥年と特定された。
少なくとも5世紀後半には、日本では漢字が使われていたようだ。
日本で最も古い銘文入り鉄刀は、中国製ではあるが、奈良県天理市の東大寺山古墳から発掘された鉄刀である。
この鉄刀には、後漢の年号である中平(184~189年)の文字が刻まれている。
実は私は、邪馬台(やまと)国(邪馬台は、当時の漢字の音読みでは、「やまたい」ではなく「やまと」と発音する)がそのまま大和王権に繋がっていると考えている。
189年は卑弥呼が表舞台に登場した頃と言われている。この鉄刀も、ヤマト国が中国大陸と交流して入手したものだろう。
その鉄刀が、大和王権の有力者の墓とされる4世紀の前方後円墳から見つかっているのだから、ヤマト(邪馬台)国と大和王権が連続した政権もしくは勢力である証拠であると思う。
箕谷古墳群では、2~5号墳の4つの古墳が復元されている。
3号墳は、周囲を石垣で固められている。こういう姿の古墳は初めて見た。当時、本当にこういう形だったのだろうか。
復元された4,5号墳は、1人用の古墳で、小さな塚にしか見えない。
古代の人があまり深く考えずに刻んだ銘文の干支で、歴史の景色がまるで違ったものに見えてくる。
現代人も、日々色んな記録を残しているが、現代人が何気なく残したものが、後世の人にとって貴重な情報源になることもあると思う。
文字を書く時は、心して書きたいものだ。