十一大明神神社から西に行く。南あわじ市市新の集落の南側には、南あわじ市特産の玉ねぎ畑が広がる。
この辺りは、古墳時代中期の集落の遺跡である木戸原遺跡が発掘された場所である。
三種の神器と同じ剣・勾玉・鏡を軟らかい滑石という石で真似た祭祀具や、大和王権が各地に配った鉄鋌が出土した。
大和王権の影響力を色濃く受けた遺跡である。
ここから南西の南あわじ市志知中島の集落にある大炊(おおい)神社を訪れた。
5月4日の「野辺の宮 丘の松 事代主神社」の記事でも紹介したが、第47代淳仁天皇は、恵美押勝の乱に関連したとして孝謙上皇によって廃位とされ、天平宝字八年(764年)に御母当麻(たいま)夫人と共に淡路に流された。
慶野松原から淡路に上陸した淳仁天皇が最初に滞在したのが、この大炊神社にあった高島宮と言われている。
大炊神社の祭神は、淳仁天皇こと大炊大神である。
社伝によれば、天皇はこの地で亡くなり、本殿の西側にある天皇塚に葬られたという。
当ブログでは、既に高島陵、丘の松という、淳仁天皇埋葬伝説のある場所2つを紹介したが、ここも淳仁天皇埋葬地という伝説の残る場所である。
天皇塚に近づくと、石仏があり、その前に菰(こも)が掛けられていた。
菰が掛けられた場所の下が、淳仁天皇が埋葬されたと伝えられる場所である。
地元の住民が、埋葬された天皇が寒くないように、菰を編んでここに掛けているのだという。
淳仁天皇が亡くなったのは、天平神護元年(765年)十月二十三日であるという。
その日から今まで絶えずに菰は掛けられ続けてきたのだろうか。
この場所に淳仁天皇が実際に埋葬されているかどうかは分からぬが、住民の天皇を慕う気持ちは、この掛けられた菰によく表れていると思う。