植村直己冒険館から南西に車を走らせ、豊岡市日高町荒川にある曹洞宗の寺院、布金山長者峰隆国寺を訪れた。
隆国寺は、室町時代に守護大名山名氏の四天王と言われた重臣垣屋隆国の菩提寺として建立された。
元々阿瀬金山(現豊岡市日高町羽尻)にあったが、元和九年(1623年)に近隣にあった大光院、西方寺を併せて現在地に移った。
寺はその後火災に遭ったが、寛政四年(1792年)から文化三年(1806年)にかけて再建された。
その際に石垣も築かれたが、隆国寺の石垣は、元々火山だった神鍋高原に転がる溶岩を利用して造られている。石垣に近寄ると、成程石の表面にところどころ気泡の跡があり、溶岩だと分る。
寺の周囲は、この溶岩で出来た石垣でお城のように囲まれている。
総門を潜ると、目の前に立派な山門が聳え建っている。
この山門は、享和二年(1802年)に再建されたものである。三たん(但馬、丹波、丹後)随一と称される山門であるらしい。
この山門を潜るとき、上層に上がる階段がついていることに気づいた。
この階段を登って行くと、上層階に入ることが出来た。
上層階に上がることが出来る山門はなかなかない。上層階には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されていた。
享和二年(1802年)に山門が再建された時に造られた仏像だろう。古くはないかもしれないが、なかなか力作の仏像揃いだった。
十六羅漢とは、釈迦の入滅後、長く世に留まって正法を護持することを決意した16人の弟子たちで、禅宗では特に尊重されている。
釈迦入滅後、釈迦の教えを後世に残すために、弟子たちが集まって、それぞれが記憶する釈迦の説法の内容をお互い確認し合い、共通テキストにして口誦することで後世に伝達したとされる。これを第一次仏典結集と呼び、今の阿含経の原型がこの時に出来た。
十六羅漢は、その時の弟子たちだとも言われている。
釈迦入滅後五百年以上経過して出てきた大乗仏典は、釈迦の当初の教えになかったものが相当付け加えられているという。
釈迦は弟子たちが自分の像を作って拝むことを禁じたという。仏像が出来る前の、本来の釈迦の教えに興味を覚える。