熊野神社と言えば紀州であるが、ここ岡山県倉敷市林にも熊野神社がある。
熊野神社と隣の修験道の寺院、五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)は、江戸時代までは一体のものとして尊崇を受けていたが、明治時代の神仏分離令により、截然と分けられた。
今日は熊野神社の方を紹介する。
7世紀半ば、大和国に生まれた役小角は、紀州熊野や大峯山で修業を重ね、修験道を確立した。行で得た神秘的な力で衆生を救済したとされる。
文武天皇三年(699年)、役小角は、呪術をもって民衆を惑わした罪で、伊豆に配流となった。
役小角の五人の弟子(義学、義玄、義真、寿元、芳元)は、紀州熊野本宮へ難が及ぶのを避けるため、熊野本宮の神輿を船に乗せ、300人の山伏と共に瀬戸内海に逃れた。
今の熊野本宮大社ホームページの神社の由来を説明する文の中には、役小角との関係を示すものは書かれていないが、どうやらかつて、熊野三山と修験道の間には、密接な関係があったようだ。
熊野本宮の神輿を抱えた一行は、まず土佐に上陸し、その後九州に赴いて浄域を求めた。
大宝元年(701年)、一行は今の倉敷市呼松の沖で白髪の神様に呼ばれ、柘榴浜に上陸した。そしてこの林の地に神輿を安置し、熊野神社を創建した。
一行は、紀州熊野三山になぞらえ、この熊野神社を本宮とし、木見の諸興寺を新宮、由加山を那智宮に見たてて新熊野三山としたという。
五人の弟子は、建徳院、伝法院、太法院、尊瀧院、報恩院の5院(児島五流)を開いて奉斎した。これが今の五流尊瀧院の発祥である。
熊野神社の本殿は、全部で6棟あるが、応仁の乱に際して焼失し、明応元年(1492年)に再建された。
明応元年に再建された本殿で、現在まで残るのは、第二殿のみである。それ以外の5棟は、正保四年(1647年)に岡山藩主池田光政によって再建されたものである。
第二殿は鮮やかに彩色されており、蟇股の彫刻には梵字が書かれている。第二殿は国指定重要文化財である。梵字が書かれた神社建築は、現在では稀だが、過去の神仏習合の名残であろう。
熊野神社の本殿は、向かって左から第三・一・二・四・五・六殿と称している。第二殿以外は、岡山県指定文化財となっている。
第二殿以外の本殿も、檜皮葺の簡素な佇まいである。ずらりと並んだ本殿の姿は、紀州の熊野本宮大社や熊野速玉大社を彷彿とさせる。
熊野神社は、神仏分離令の後も神仏習合の香りを残している。本殿に祀られた祭神の説明板を見ると、祭神に対応した本地仏が書かれている。
神仏習合の考え方では、民衆を救うため、仏様が理解されやすい姿で権(かり)に現れたのが神様であるとされている。
説明板で言えば、伊邪那美命は、本地仏である千手観音が権に現れたものである。
権に現れた神様を権現(ごんげん)と呼ぶ。このように神仏が混ざり合った姿が、中世日本の信仰の形である。
本殿は南面しているのだが、本殿西側には、お稲荷様を祀った八尾羅稲荷神社がある。
八尾の白狐の絵が奉納されていた。この狐、本当にどこかにいて人々を見ていそうな気がする。
私はかつて紀州熊野三山を詣でたことがあるが、奇勝と言ってよい山々に囲まれた熊野三山に行くと、日本の地霊というか、古い信仰を感じることができる。