野﨑武左衛門が開拓した野﨑浜の塩田は、昭和44年には廃止となった。
日本の製塩法は、昭和40年代には、イオン交換膜と電力を利用して鹹水を作り、真空式蒸発缶で煮つめる方法が公式に採用されることになった。
広い土地面積と莫大な労力が必要とされる塩田は、お役御免となった。
現在のJR児島駅の周辺が、かつて野﨑浜の塩田のあった辺りである。
JR児島駅の東側に、明治41年(1908年)に、野﨑武吉郎の還暦記念の寄付金で設立された児島郡立商船学校の跡がある。
児島郡立商船学校は、大正2年(1913年)に岡山県立商船学校となり、昭和14年(1939年)に国立児島海員養成所となった。昭和27年(1952年)に名称が児島海員学校となる。昭和56年(1981年)には、海技大学校児島分校となる。平成21年(2009年)、海技大学校児島分校は廃止となった。
今は廃校となった校舎が残されている。
学校跡の西隣には、野﨑家の塩田の守り神とされた塩釜明神社が祀られている。
鳥居は、嘉永三年(1850年)の建立である。境内には、野﨑武左衛門の功績を称える「野﨑翁墓碣銘」が建てられている。
塩釜明神社から南に行くと、旧野﨑浜灯明台がある。
文政十二年(1829年)に完成した野﨑浜の塩田には、製塩資材を搬入する船や、各地の塩買船が出入りするようになった。幕末には北前船の往来も盛んになる。
味野、赤﨑の両浜を割る入川の河口の波止場の一角に、文久三年(1863年)に灯明台が建てられた。
灯明台は、入船を導く灯台の役割と、塩釜明神社への献灯の役割を果たした。
石積みの基壇の上に建てられており、頂上には水煙のついた宝珠をいただいている。均整の取れた美しい建物である。
昭和40年代前半まで照灯を続けたが、昭和44年の野﨑浜塩田の廃止と共に荒廃がひどくなった。昭和49年に倉敷市指定文化財となり、昭和50年に解体修理された。
江戸時代の木造灯台の遺構としては、岡山県下唯一のものである。
児島味野2丁目には、明治25年(1892年)に野﨑武吉郎が祖父野﨑武左衛門を顕彰するために建てた野﨑武左衛門翁旌徳碑がある。
オベリスク(方尖柱)型の石碑で、塩業に従事する作業者や近隣の農・漁民の労力奉仕によって完成した。
旌徳碑とその下の石垣、旌徳碑前の石橋、門柱が国登録有形文化財となっている。
また、敷地内に、大正10年(1921年)に、野﨑武吉郎が知人からハワイ島土産として贈られたビロウ樹が植えられている。
日本の露地に生えるビロウ樹の北限であろう。
今回の児島訪問では、時間の都合上、野﨑家関連の史跡しか訪れることが出来なかった。児島には、他にも寺社や洋館などの様々な史跡がある。それらの史跡については、また将来紹介することになるだろう。
私は海に向かって開けた港町が好きなのだが、児島も港町である。海が陽光を反射するのか、港町の空は明るい。
小さな町ながら、海があり、レトロな建物があり、歴史ある児島の町が好きになった。