作楽神社 後編

 作楽神社の境内の東側には、院庄館の東大門の跡がある。

 児島高徳は、この東大門の近くにあった桜の木に十字の詩を書きつけたという。

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東大門跡 院庄碑

 貞享五年(1688年)、津山藩森家の家老、長尾勝明は、東大門跡に児島高徳を顕彰する石碑を建てた。

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貞享五年(1688年)に建碑された院庄碑

 この石碑が、後年の作楽神社建立の元となった。石碑は、今は覆屋で守られている。

 明治二年(1869年)に、津山藩松平家の家臣・道家大門らの努力により、院庄館跡に後醍醐天皇を祭神とし、児島高徳を配神とする作楽神社が建立された。

 明治時代には、南朝の功臣を祀る神社が日本中に建立されたが、この作楽神社もその一社である。

 作楽神社の南側には、道家大門の歌碑が建っている。

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道家大門の歌碑

 道家大門は、作楽神社建立後は、神社の宮司となり、この場所に館を建てて住んだ。

 道家は、明治の廃刀令に悲憤を感じた。歌碑に刻まれているのは、「弓とらず 太刀さへはかず なりにけり かがしのまへを ゆくもはづかし」という歌である。

 道家は万葉調の歌人だったというが、あまりにも拙劣な歌である。しかし自分の気持ちを飾らず素直に吐き出した歌だ。

 作楽神社の社殿は、銅板葺きの屋根を持った簡素で雄勁な建物である。

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作楽神社社殿

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作楽神社拝殿

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 銅板葺きで横に翼を広げたような社殿は、同じく後醍醐天皇を祀った奈良県吉野神宮によく似ている。

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本殿

 本殿は簡素な流造りである。児島高徳も、忠義を尽くす対象だった後醍醐天皇と同じ社に祀られて、恐懼していることだろう。

 作楽神社の社殿は広大である。かつての院庄館の面影を今に伝えている。

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作楽神社境内

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作楽神社の社殿

 作楽神社の社殿の脇には、摂社の護桜神社がある。

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護桜神社

 護桜神社は、院庄碑を建てて院庄故事を顕彰した長尾勝明と、作楽神社の創建の功労者道家大門を祀っている。

 また社宝として伝えている太刀(銘、来国行)は、国指定重要文化財である。

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作楽神社の社務所

 児島高徳だけでなく、日本史上において、皇室に忠義を尽くそうとした人々のエネルギーが、日本の歴史を推進させてきたことは評価すべきことである。

 だが、道徳心や文化を生み出す気持ちは、人々から自発的に出たものでなければ長続きしない。一つの思想や道徳を、国民全体に無理に植え付けようとすると、その国の文化は窒息する。

 様々な物の見方を許容する懐の深い社会こそが、豊かな文化を生み出していく。

 戦後の日本社会には欠陥もあるが、この時代は、日本史上で国民が最も自由で豊かになり、なおかつ平穏に暮らせた時代でもある。

 戦後の日本が生み出した文化が豊饒だったかどうかは、後世の評価を俟たねばならないと思うが、個人の内面が自由に委ねられた今の時代は、様々な可能性に満ちていると思う。