片岡鐵兵文学記念室 

 一宮八幡神社の参拝を終えて北上し、岡山県苫田郡鏡野町竹田にあるペスタロッチ館(鏡野町総合文化施設)に赴いた。

ペスタロッチ館

 ペスタロッチ(1746~1827年)はスイスの教育者で、貧民の子や孤児にも平等に教育の機会を与え、生徒の自主的学習意欲を伸ばすことに尽力した人物である。

 鏡野町は、ペスタロッチの知・徳・体をバランスよく発展させるという教育理念を取り入れ、日本のペスタロッチタウンを謳っている。

 鏡野町は、ペスタロッチが晩年に教育の拠点にしたスイスのイヴェルドン・レ・バン

に職員を派遣してペスタロッチの理念を学習し、同自治体と友好憲章を結んでいる。

 ペスタロッチ館は、鏡野町図書館、郷土博物館が入る同町の文教施設である。

ペスタロッチの銅像

 ペスタロッチ館の前には、ペスタロッチの銅像が設置されている。子供たちに慕われるペスタロッチの像だ。

 さて、ペスタロッチ館の前庭には、鏡野町が生んだ小説家・片岡鐵兵の詞碑がある。

片岡鐵兵詞碑

昭和26年の片岡鐵兵詞碑の除幕式。左から二人目は川端康成

 片岡鐵兵は、明治27年(1894年)に岡山県苫田郡芳野村(現鏡野町)に生まれた。

 津山中学校時代から文才を発揮し、雑誌などに文章を投稿するようになった。一度上京して、文学者を目指すが、挫折し、郷里に戻って新聞記者になる。

 しかし創作は続け、大正10年に雑誌「人間」に処女作「舌」が掲載される。その年に上京し、作家生活に入る。

 ペスタロッチ館の中にある鏡野町立図書館の奥には、片岡鐵兵を記念する片岡鐵兵文学記念室がある。

片岡鐵兵文学記念室

 大正13年、片岡は東京で知り合った川端康成横光利一らと同人雑誌「文芸時代」を創刊した。

 同誌の同人には、片岡鐵兵、川端康成横光利一菊池寛、池谷新三郎がいる。彼らの作品は、清新で実験的な文章で綴られていた。いつしか彼らの文学は新感覚派と呼ばれるようになった。

文芸時代の同人。左から菊池寛川端康成、片岡鐵兵、横光利一、池谷新三郎

 私は、新感覚派の作品はあまり読んだことがないが、最近川端康成の掌編小説集「掌の小説」を枕元に置いて、気が向いたらちびりちびりと読んでいる。

 川端が昭和初期を中心に書いたごく短い小説が集められた小説集だが、読めば芳醇な文章の香りが漂う。果汁豊富な柑橘類の果物を食べているような感覚だ。

 その川端は、片岡鐵兵の死後の昭和26年に、片岡の郷土の鏡野町に詞碑が建った時、詞碑に片岡が好んだ「海と大空の中の一点のわたしを孤独と思え」という言葉を揮毫した。

川端が揮毫した「海と大空の中の一点のわたしを孤独と思え」の詞

 詞碑の揮毫文は、川端の友を送る哀惜の気持ちがしみじみと出ている字体だ。

 片岡はその後新感覚派の闘将として作品を発表し続け、小説集、随筆集などを出版する。

片岡鐵兵の著作

令女小説集「睡蓮」

 しかし、33歳になった昭和2年ころから左傾化し、プロレタリア文学の作品を書くようになった。

 昭和5年に片岡は第三次関西共産党事件で検挙され、昭和6年に拘留されて、昭和7年から大阪刑務所で服役することになった。

 昭和7年9月に片岡は獄中で転向を表明する。昭和8年10月に出獄し、岡山に転居した。

片岡鐵兵

 転向とは、自己の思想を変えることである。

 大正14年治安維持法が制定され、国体変革と私有財産制度の否認を目的とした結社の組織や、結社への加担が処罰されることになった。

 皇室と私有財産制度を否定する結社、例えば日本共産党の党員は、党員というだけで検挙されるし、その周辺者も検挙された。

 被検挙者は、警察での取り調べや獄中で、共産主義思想の放棄を迫られ、苛烈な拷問を受けたりした。

 それに耐えきれずに転向を宣言し、天皇主義者になる者が続出した。中には表面上の転向者もいたことだろう。当時「転向」は社会問題になった。

 片岡が転向して出所した昭和8年に、プロレタリア文学者の小林多喜二が獄中で拷問を受けて獄死したのは皮肉である。

 片岡は出所後、大衆小説家となり、人を楽しませる小説を書くことに専念するようになった。

 昭和19年、片岡は50歳で死去した。

 戦後、左翼思想が息を吹き返すと、戦前戦中に転向した者は世間から白眼視されるようになった。片岡も戦後に生きていたら、世間の批判にさらされたかも知れない。

 川端康成は、転向前も後も変わらぬ片岡の人間的魅力を知っていたので、詞碑に片岡の好きな言葉を揮毫したのだろう。

 転向のことを考えると、思想とは一体何だろうと思う。

 考えてみれば、日本という国自体も、終戦を挟んで、日本神話に基づく一種の神権国家から、西欧の天賦人権説に基づく民主主義国家に「転向」した。

 この転向の狭間で、戦後の日本人の精神は分裂し、さすらった。

 川端康成は、昭和22年に盟友の横光利一が死んだときの追悼文に、「僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく」と書いた。川端は戦後も変わらぬ日本の山河を精神の拠り所とするしかなかったのだろう。

 戦前、戦後に一貫するのは、変わらぬ日本の山河である。私も史跡巡りをして古くから変わらぬ日本の山河を眺めるようになって、「思想」以前の日本人の拠り所がここにあると感じるようになった。