虎石山能引寺 

 大江神社から南下し、鳥取県八頭郡八頭町下野にある臨済宗の寺院、虎石山能引寺に行った。

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虎石山能引寺

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参道脇の地蔵尊

 能引寺は、日本三大仇討の一つとされる、曽我兄弟の仇討ちと関連がある。因みに日本三大仇討の他の2つは、元禄赤穂事件と伊賀越の仇討ちである。この2つは既に当ブログで紹介している。

 曽我兄弟の仇討ちの話は、「吾妻鑑」にも見え、その後歌舞伎の演題になって人口に膾炙した。

 「曽我兄弟」の物語は、平安時代末期から鎌倉時代初期が舞台である。

 武士の工藤祐経が、所領争いで恨みを持つ親類の伊藤祐親を殺害しようとして、郎党に祐親を待ち伏せさせて射させたところ、矢が祐親の嫡男河津祐泰に当った。

 祐泰は死に、祐泰の妻と男子2人が後に残された。

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鐘楼門

 祐泰の妻は曽我祐信と再婚し、男子2人は元服して曽我祐成、曽我時致を名乗るようになった。

 この曽我兄弟が、建久四年(1193年)に、源頼朝の富士野の巻狩りに付き従っていた父の仇・工藤祐経を襲撃し、倒したのが、世に言う曽我兄弟の仇討ちである。

 兄の祐成は仇討の戦いの最中に討たれた。弟の時致は、仇討後頼朝に捕らえられたが、殺された祐経の子の進言により処刑された。

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本堂

 見事仇討の本懐を遂げた曽我兄弟だが、2人とも命を落とした。

 祐成の妻・虎御前は、夫の死後、剃髪して尼僧となり、貞感と称した。そして諸国を放浪し、建久六年(1195年)にこの因幡の地に留まって草庵を結び、夫の菩提を弔った。今の能引寺の始まりであるという。

 能引寺の境内には、虎御前がその側で庵を結んだとされる虎ヶ石があるという。

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境内の虎ヶ石

 境内に、縦に縞模様のように筋の入った趣のある石があった。これが虎ヶ石だろうか。おあつらえ向き過ぎるので、後世になって置かれたものだろう。

 虎御前は、裏山の山腹に経塚を建て、元久二年(1205年)に33年の生涯を終えた。

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虎石山と刻んだ石

 能引寺の裏山には、墓地があり、そこに宝篋印塔がある。虎御前の墓と伝えられている。

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虎御前の墓への道

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虎御前の墓とされる宝篋印塔

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 虎御前の没後、比叡山から虎御前の伯父の僧・忍山がこの地を訪れ、貞応元年(1222年)に虎御前の菩提を弔うため、寺を建立した。乃ち今の能引寺である。

 虎御前は、実在の人物と思われるが、「曽我物語」の物語で有名になったせいで、全国あちこちに虎御前の墓と称されるものがある。この能引寺も、そうした伝承地の一つである。

 和泉式部弘法大師行基役小角の伝承地が全国あちこちにあるのと同じだ。

 伝承が生まれるにも理由がある筈だ。この地に虎御前が本当に来たかは分からないが、その伝承が生まれた由来には興味を覚える。