志戸坂峠から国道373号線を北上し、山形郵便局の手前を右折して、芦津渓谷方面に走る。
右折してしばらく行くと、右手に古い小学校の木造校舎が見えてくる。今は廃校となった、旧智頭町立山形小学校の校舎である。
山形小学校は、平成24年に智頭町内の小学校6校が合併されたことにより、廃校となった。
山形小学校校舎は、昭和17年に地元の木材を利用して建てられた木造校舎で、閉校前の平成17年に国登録有形文化財となった。
旧山形小学校校舎は、今は色んな民間会社や、地域の振興会の事務所などに利用されているようだ。
校内の見学は可能なようだが、私が訪れた時は玄関に鍵が掛かっていて、中に入ることが出来なかった。
校庭の方に回ってみる。がらんとした校庭跡が広がる。廃校と言うものは、どことなく寂しいものだ。
私は小学校1年生から6年生の1学期まで、新潟県のとある小学校に通っていた。
最近、新潟県の廃校巡りをされている方のブログを拝見して、その小学校が廃校になっていることを知った。
私はその小学校で卒業式を迎えなかったが、実質的な母校だと思っている。母校がなくなるというのは、感慨深いものがある。
ちなみに私が卒業した兵庫県の中学校も既に廃校になっている。
日本の少子高齢化と東京一極集中は、もはやどんなことをしても止めることは出来ないものと思われる。
これからも地方の学校はどんどん廃校になっていくことだろう。それを自明の前提として、国家像を考えなければいけないところに来ているように思う。
さて、旧山形小学校から更に奥地に入っていく。智頭町大呂にある虫井神社を訪れた。
虫井神社の虫の字は、正しくは上の写真の扁額のとおり、上に一本横棒が入る。パソコンではこの字は出て来ないので、便宜上通常の虫の字を使う。
社殿は、杉に囲まれ、縹渺とした雰囲気を漂わせている。
御祭神は、瀬織津姫命、須佐之男命、速秋津姫命、天御中主命、宇賀魂之命の五柱である。瀬織津姫は、記紀には登場しないが、大祓詞に出てくる神様だ。
拝殿に掲げられた虫井神社の由緒書きを読むと、御幸魂として、荒海大明神、都々良麻大明神、里人大明神という三柱の神様も祀られている。
第十二代景行天皇の御代に、この地を治めていた荒海、都々良麻、里人の三兄弟が、いち早く景行天皇に降伏し、その配下に入ったとされている。
記紀や「風土記」を読むと、確かに景行天皇が九州まで遠征して西日本を攻略していった様子が書かれている。
景行天皇の時代は、恐らく4世紀後半であるが、その時代に大和王権の支配の証である前方後円墳が日本全国に広まっている。
その頃既に大和王権が圧倒的な武力を持っていたから、各地の豪族たちは降伏したのだろうが、それ以外に何らかの支配の正当性となるものを持っていたからこそ、スムーズに全国統一が出来たのではないか。それが、大和王権が持っていた信仰の力なのか、海外から入手した文物の珍しさなのか、それは分からない。
大和王権による日本統一は、我が国最初の全国統一のための内戦である。それが滞りなく出来たのかどうかは、文字記録がないためよく分からない。
ところで虫井神社周辺に広がる社叢は、鳥取県指定天然記念物である。
虫井神社社叢は、ウラジロガシ林とブナ林が混在するところに特徴がある。虫井神社のような低標高の場所にブナ林が出来るのは珍しいらしい。
また、虫井神社では、毎年10月28日に、力士のようなまわしを締めた若者が、花籠を背負って踊りを奉納する花籠祭りや、麒麟獅子舞が行われる。鳥取県無形民俗文化財だそうだ。
律令制度成立以前の、地方豪族が大和王権からその土地の統治を託されていた時代の遺風が、虫井神社には残っているような気がする。