私の住む兵庫県に新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が発令されたのが、今年の4月25日である。
その前日の4月24日に、因幡の史跡巡りをした。暫くその日に訪れた史跡の記事を書いていきたい。
今日紹介するのは、かつて鳥取藩池田家の参勤交代路でもあった智頭(ちず)往来の、美作因幡国境にある志戸坂峠である。
中国自動車道佐用JCTから北に向けて鳥取自動車道が延びている。無料の自動車道である。
この鳥取自動車道を利用して北上し、岡山県と鳥取県の県境にある新志戸坂トンネルを過ぎたところで左折し、側道に入り南下する。
ちなみに、鳥取自動車道は、新志戸坂トンネル前後の区間だけ高速道路ではなくなり、国道373号線になる。
上の写真の、トンネル西側の南に延びた砂利道が、かつての智頭往来である。
ここを歩いていけば志戸坂峠に至るが、車での走行は出来ない。歩いて行ってもいいが、時間の節約のため、なるべく車で峠近くまで行く事にした。
上の写真の図のように、旧智頭往来を歩いて峠に至るルートの他に、旧国道を走行して、旧志戸坂隧道手前の道から歩いて志戸坂峠に至るルートがある。
旧国道を車で走り、峠近くまで行く事にした。
智頭往来の歴史は古い。平安時代には、因幡国庁と京を結ぶ官道として整備されていた。
江戸時代には、鳥取城から用瀬(もちがせ)宿、智頭宿を通過し、志戸坂峠を越えて、美作国英田郡の小原宿や播磨国佐用郡の平福宿を通過して姫路に至る道が、参勤交代路として整備された。
明治19年には、峠道が整備された。現在の峠道に残る石垣と石組水路は、この時に整備されたものである。
昭和10年には、旧志戸坂隧道と旧国道が開通した。昭和56年に、新志戸坂トンネルが開通し、旧志戸坂隧道は閉鎖された。
旧国道は、現在も使用されているようで、旧志戸坂隧道の手前までは車で通行できる。
旧志戸坂隧道直前に来ると、左右の山から土石が路面に落ちていて、車では進めなくなる。
写真のように、旧国道は土石で埋まりつつある。旧隧道内では、シイタケの栽培が今も行われているようだが、それも行われなくなれば、ここを人が訪れることもなくなり、旧国道は土で埋まり、その上に樹木が生えて、森に帰ることだろう。
5月15日の「追入神社 追手神社」の記事で、地球の主役は人類ではなくて樹木ではないかと書いたが、人間が撤退した場所は、すぐに樹木などの植物に覆われてしまう。
日本の少子高齢化がこのまま進めば、国外からの移住者が来ないかぎり、西暦3000年ころの日本列島には、人がほとんどいなくなると予測されている。
放棄された市街地を土砂と植物が覆い、人が住んだ痕跡がなくなった将来の日本列島を想像した。
さて、旧志戸坂隧道手前から、志戸坂峠に至る道が分かれている。
上の写真の、スイフトスポーツを駐車した場所の先が、智頭往来に至る道である。
ここからは徒歩になる。しばらく行くと、石垣が見えてくる。これが明治19年に整備された石垣だろう。
また、一列に並んだ石組が地面から露出した場所がある。これが石垣と同時期に整備された石組水路の跡だろう。
先ほど紹介した旧志戸坂隧道の手前でも、山から溢れた水が旧国道上を小川のように流れていたが、この辺りは山から滾々と水が湧き出てくる。道を護るため、石組水路は必要だったのだろう。
しばらく行くと、道が左右に分かれる場所に至る。ここを鋭角に左に折れると、峠に通じている。丁度この分かれ道のところに、山から湧き出た水が溜まった水溜りがあった。
ここからさらに進むと、東屋があって、志戸坂峠の説明板がある。
説明板のとおり、志戸坂峠は、古代には鹿跡御坂(ししどのみさか)と呼ばれていた。
承徳三年(1099年)には、新任国司の平時範が、この峠で境迎えの儀式を受けたという。
東屋の先は、いよいよ土砂崩れがひどく、このまま放置すれば、いずれ道は完全に埋まってしまいそうだ。
峠の手前には、木製の階段がある。この階段を越えれば、因幡と美作の国境である。
もはや左右から迫る土砂をどけることを諦め、もっと安上がりの階段を設置する方法を選んだようだ。
国境には、「ここより因幡国(鳥取県)」と書かかれた板が立てられていた。
この峠を、古くから、国司の一行や、戦国武将の軍勢、参勤交代の大名行列、数多くの庶民が通過したのを空想し、しばし感慨に耽った。
さて、旅人が志戸坂峠を越えて、智頭往来を歩いて因幡国に入ると、最初にある集落は駒帰(こまがえり)である。
江戸時代には、駒帰宿という宿場であった。駒帰という名は、志戸坂峠があまりに峻険なため、峠を越えるのを嫌がった牛馬が戻ろうとしたことからきている。
駒帰宿には、鳥取藩主の大名行列の休憩所であるお茶屋が置かれた。お茶屋跡(御屋敷跡)は、現在は子供広場になっている。
お茶屋には、蔵屋敷、馬屋敷の他に、番所、制札場も設けられた。
駒帰は、今は静かな集落だが、江戸時代に大名行列が訪れた時は、さぞ賑やかだったことだろう。
このお茶屋跡からふと川向うを見ると、宝篋印塔や五輪塔が林立する一角があった。
近くに立つ木柱からすると、これらの塔は、16世紀の戦国時代に亡くなった武士たちの供養塔らしい。
赤松か山名か、尼子が毛利か、秀吉軍か、どんな武士たちのものかは分からぬが、志戸坂峠を巡って戦って討ち死にした武士たちの供養塔だろう。
遥か昔から、峠を巡って繰り広げられた人間ドラマを思い描きながら、供養塔に手を合わせた。